イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

倒錯か、真の愛か……。

 
 次の論点に進みます。
 

 「デスノート使用者は、自らが作り上げた新世界がやがて恐怖から解放されてゆくことを期待する。」
 

 新世界とは、もはや誰も他人を傷つけることのない世界です(道徳法則の普遍的遵守)。これは、最初のうちは罰への恐れ、すなわち、悪をなせばデスノートによって自分自身が殺されるかもしれないという恐怖によって実現されますが、この後にもずっとこの恐怖が不可欠なものでありつづけるとは限りません。
 

 なぜなら、最初のうちに見られるような、恐怖による「表面的な悔い改め」が、いずれ心の奥底からくる「深い内面の悔い改め」に発展するという可能性が存在するからです。
 

 人々は、最初はただ自分の名前をノートに書かれることだけを恐れ、盲目的に他者に害を与える行為を差し控えるだけかもしれません。外では新世界の秩序に従う振りをしながら、心の内側では新世界を忌み嫌っているかもしれません。
 

 しかし、犯罪も戦争もなくなり、暴虐と悲惨が急速に消え去ってゆくのを見るならば、人々は最終的にはデスノートによる「裁き」の正しさを納得しはじめるのではないか。血の制裁を下す断固たる意志が、本当は悪を悪のままに放置しておかない愛の表れであることを悟るのではないか……。
 
 
 
 デスノート 新世界 道徳法則 罰 裁き 浄化 寛容 堕落
 
 
 
 命を脅かされる新世界の住民たちがこのような理屈を受け入れるかどうかは定かではありませんが、少なくともこれがデスノート使用者の主観的な希望であろうと推測されます。自らが振るう暴力を愛として捉えるというあたり、まことに倒錯した論理であると言えそうですが、これが一周逆転してまかり通ってしまうという可能性も、論理的にないとは言いきれません。
 

 デスノートによって人々の幾分かを「浄化」しなければならないが、それはあくまでも人類を愛するがゆえなのだ。人類を堕落したままで放っておくのは、寛容ではなく単なる無関心である。堕落した人類の惨状に涙を流さずにはいられないからこそ、デスノートを用い、人間の心からの悔い改めを切望せざるをえないのだ。
 

 ……筆者自身としては、このようなことを考えかねない誰かがデスノートを拾わないことを願うばかりですが、ひょっとすると、このようなデスノート使用者を崇拝する人々も新世界では出てくることになるかもしれません。ともあれ、新世界の完成というイデーはデスノート問題の核心への接近をいよいよ避けがたいものにしているように思われるので、これからその核心を掘り下げてみることにします。