まずは、恐怖による新世界から自発性による新世界へという、前回の論点をもう一度確認しておくことにします(議論の詳細については、前回の記事を参照)。
1. 恐怖による新世界。道徳法則の普遍的遵守が、罰されることへの恐怖からなされる。
2. 自発性による新世界。道徳法則の普遍的遵守が、道徳法則への尊敬からなされる。
新世界2は、イマヌエル・カントが「目的の国」と呼んだ共同体にあたり、これは同時にデスノート使用者が目指す最終地点でもあります。新世界1から新世界2への移行が完成すれば、デスノートの使用による世界の変革はとりあえず果たされたといえそうです。
そうなると、私たちがデスノートに関する考察を開始した時に提起した問いが、いっそう由々しき問いとして提起されざるをえないのではないだろうか。
「あれは、必要な犠牲だった。」話がこと人の命に関することであるため、簡単にそのように言えないことは間違いありません。しかし、たとえばこの世から犯罪と戦争が完全に消滅するとすれば、上の問いにたいして「それは罪とは言えない」という意見の人々も、あるいは出てくるのではないだろうか……。
人間の判断は、現実の結果しだいで揺れ動くのが普通です。行為を行った時には「AではなくBにしておけばよかった」と思っていても、その後の流れのなかで「やはり、Aにしておいてよかった」ということはごく頻繁に起こっていることで、その逆もまた珍しいことではありません。
一方、倫理的な判断については、行為の結果よりも行為それ自身の内容が問われるのが一般的ではありますが(簡潔にいうなら、たとえ結果がよいものであろうとも「ダメなものはダメである」とされる)、このデスノートの使用に関する問いについては、結果によってだいぶ印象が異なってくることは否定できません。
デスノートでも使うことがなければ、地上から暴虐と悲惨がなくなることはおそらくないであろう。それならば、幾分かの人間を犠牲にして理想の新世界を到来せしめた人間に、果たして罪があるといえるのだろうか……。
大量殺人犯か、それとも救世主か。私たちはここで、決断主義的な論理が道徳法則の普遍性を食い破りかねない想定に直面しています。「夜神月は勝利したとしても罪人であるか」という問いは原作においても問われることのなかった問いではありますが、哲学の立場から、この問いを少し掘り下げてみることにします。