デスノート主義者の主張を、エマニュエル・レヴィナスの議論を念頭に置きつつさらに掘り下げてみることにします。
1の次元は、理念的にはつねに私たちの生に関わりつづけています。たとえば、仮に世界を救うためであるとしても、一人の人間をそのために犠牲にすることは倫理的に正当化されえません(「一人の人間は、世界との関係において……。」を参照)
しかし、2の次元、すなわち、人間同士が互いに傷つけ合う現実の世界においては、その起こってはならないはずのことが日々刻々と起こりつづけています。さらには、だれかを何らかの意味で犠牲にしなければ他の人々が害をこうむるといった状況に巻き込まれることも、決して稀ではありません。
正義の次元は、このように予断を許さないシビアな経験を私たちに課してきます。デスノート主義者のロジックは、正義の次元のこのような切迫性を暴力を用いることの必要性へと結びつけるところで成立するといえるでしょう。
正義の次元の切迫性については、次のような二つの選択肢がありえます。
A. 状況は切迫しているが、他者を傷つけることは極力避けるべきである(コモン・センスの立場)。
B. 状況が切迫しているゆえ、場合によっては他者を傷つけることをも恐れるべきではない(決断主義の立場)。
Aの態度は穏当であり、おそらく大半の人が選択するものであろうと思われますが、現実の暴力と悲惨に対して妥協してしまう恐れがないとは言えないかもしれません。「私たちは誰かを傷つけているわけではない、ゆえに、私たちは彼らから流れる血には責任がない」というスタンスでゆくとすると、人間はひょっとすると助けようと思えば助けられるはずの他者を、実質上は見捨てることになってしまうかもしれないからです。
これに対して、積極的にある種の「世直し」に乗り出してゆくBの態度は、正義感のゆえに取り返しのつかない形で暴走する危険はきわめて大きい(その実例も数限りない)とはいえ、ある意味ではAよりも傷ついている他者への無限責任を積極的に引き受けている側面がないとはいえません。デスノート使用者がもしも新世界の「創造 Creation」に成功するならば、よいか悪いかは別にするにしても、彼がノーベル平和賞を受賞するという可能性も論理的にはゼロではなさそうです。
[筆者自身は、デスノートの使用には反対の立場です。]