イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ボンヘッファーと、ヒットラー暗殺計画

 
 前回の論点に関連して、取り上げておきたい歴史上の出来事が一つあります。それは、20世紀ドイツの神学者であったディートリッヒ・ボンヘッファーによる、アドルフ・ヒットラー暗殺未遂事件です。
 

 ここでは詳細に触れることは控えますが、ボンヘッファー第二次世界大戦中に、ヒットラーの暗殺計画に加わりました。結局、この計画はその途上で挫折し、ボンヘッファーものちに処刑されてしまいましたが、この事件は私たちに次のような問いについて考えさせずにはいません。
 

 「さらなる悲惨が起こるためにヒットラーのような人間を殺すことは、罪とされるだろうか。」
 

 当時のナチスユダヤ人の大量虐殺をはじめとする多くの所業に手を染めつつあったことは、誰もが知るところです。ボンヘッファーのように、暴力的な手段に訴えてでもナチスを止めようとする人が出たとしても、おかしくはないのかもしれません。
 

 それでもやはりこのケースは、私たちに倫理なるものそれ自体について考えさせずにはおきません。はたして、第二次大戦の時点においてヒットラーを暗殺することは、悪なのだろうか。そうしなければさらに多くに人々が殺されてゆくであろうという、まさにその時に……。
 
 
 
ディートリッヒ・ボンヘッファー 第二次世界大戦 ヒットラー 暗殺計画 ユダヤ人
 
 
 
 この計画に加わっていたのが一人の信仰者であったという点が、このケースをさらなる深淵へ迷い込ませていると言えるかもしれません。すなわち、哲学あるいは神学の観点からは、「愛の名のもとに一人の人間を殺すということはありうるか」という問いが立てられうるからです。
 

 この問題には抽象的かつ理念的な問題として答えを与えることなどできず、ただ歴史上のあの時点(あるいは、それと同じような歴史上の瞬間)においてのみ問いが問われうるというスタンスもありえます。ここでは安易に判断を下すことは控えますが、このケースは、人間には倫理がその全体において揺るがされる時に居合わせることもありうるということを私たちに示しているといえるのではないか。
 

 どんな人間もその答えを知りえない倫理的な問いというものが、ありうるのかもしれない。ボンヘッファーらによるヒットラー暗殺未遂事件は、倫理学の営みそのものが宙吊りになりかねない地点を人間に対して突きつけているといえるのかもしれません。