そろそろ、今回の探求の暫定的な結論を出しておくことにします。
「デスノート問題はつまるところ、人間には例外者として振る舞うことが許されるかという問いに帰着するのではないか。」
ここではデスノート主義者の(暗黙の)論理にしたがって、倫理的な主体としての人間を次の二つの類型に振り分けて事態を整理してみます。
1. 「一般人」……倫理法則を守ることを求められ、それを破ることは許されない。
2. 「例外者」……一般人たちに倫理法則を守らせるために、倫理法則を破ることが許される。
1の「一般人」には、たとえ正義のためであるとしても、人に害を与えることは許されません。「悪人だからといって悪人を殺せば、悪人である」というのは、私たちの世界を構成している基本的な原則であるといえます。
これに対して、2の例外者はまさにその「悪のために悪人を殺す」ことが許される、とされます。一般人ならば私刑(リンチ)として犯罪とされる行為であっても、例外者によって行われるならば、それは打って変わって行使とされるわけです。
したがって、デスノート主義者によるならば、1と2のあいだには超えることのできない位格の差が存在しているということになるでしょう。原作における卓抜な表現を用いるならば、デスノート使用者とはまさに人間を超える「新世界の神」にほかなりません。
問題は、まさにこのような「新世界の神」になる可能性を人間に対して認めるかどうかです。ここには、次の二つの選択肢がありえます。
A. ある種の人間には、例外者として振る舞うことが許される。
B. いかなる人間であっても、例外者として振る舞うことは許されない。
デスノート主義者が選ぶのは言うまでもなくAの立場に他なりませんが、ここでAとBのどちらを選ぶのかは、究極的にはその人の信念のあり方次第であるように思われます(※)。どちらの立場にも一定の論拠があり、どちらを選んだとしても、メリットとデメリットの双方があります。
筆者自身はといえば、個人的にはBの立場を選択します。これから、その立場の方から少しだけデスノートの使用に反対する論を展開してみることにしますが、その場合にも、Aの立場、すなわちデスノート主義者の立場が論理的に覆されるわけではないということには注意しておく必要があるかもしれません。