イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学と国家

 
 国という主題は哲学者にとっても、無視できない問題を提起しているといえるのではないか。
 

 「真に創造的な哲学と国家との関係は、どのようになっているのか。」
 

 たとえば、ヘーゲルニーチェの哲学のように、よく言えば壮大な、見ようによっては大仰な哲学は、ドイツという国からしか生まれえなかったことでしょう。岩波入りするほどの哲学はどこかで、その哲学が生まれ育った環境との特異的なシンクロニシティを実現しているといえるのではないか。
 

 このことを考えると、たとえば21世紀初頭現在のわが国において岩波入りする哲学を作り上げることは、なかなかの難事であるといえざるをえません。
 

 もはや、東洋的なものを哲学にもたらすというかつての先人たちの問題はすっかり影をひそめ、全面的にグローバル化しつつも滅茶苦茶にガラパゴスでもあるという、何がなんだかよくわからない状況にわれわれは囲まれている。哲学者は、あくまでもグローバルな次元に目を開いてゆくべきなのか、それとも逆にこのガラパゴス的状況を極めつくして、ウルトラ内輪でニッチな路線を突き進むべきなのか……。
 
 
 
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 繰り返しになってしまいますが、「東洋的なるもの」が、すでに東洋を生きる私自身にとってすらかなり縁遠いものになってしまっていることは確かです。西田幾多郎井筒俊彦といった先人たちの系譜を引き継いでゆくには、われわれは、すでに後戻り不可能なまでのところに来てしまっているのではないだろうか……。
 

 いやでもさ、テンプレはテンプレかもしれないけど、日本って未だになんか、東洋の神秘とハイテクの融け合った不思議な国って見られてる。てことはだよ、向こうのオリエンタリズムに乗っかりまくって東洋ぶってれば、逆輸入を介してワンチャン岩波入りできるのではなかろうか。海外で評価が高まってからだんだん国内でも認められてゆくというのは、この国では鉄板中の鉄板路線なのである……。
 

 ……といったような浅ましい算段をめぐらしていても、結局最後には付け焼き刃の東洋路線を貫徹できない現実の自分が哀れになってくるだけなので、ここは大人しく地道に作り事なしで書き続けてゆくしかなさそうです。ただし、自虐的な私小説エクリチュールで底辺からの一発逆転を狙うというのは、我が国の文学の伝統に則っていなくもないとはいえるかもしれません(尤も、逆転が起きる兆候は今のところ皆無である)。