「一つの国のあり方のよさを判断するためには、哲学的考察が必要とされる。」
たとえば、私たちが日本という国について判断するときには、日本においてはブログ文化が相対的にみて豊かである(前回の記事を参照)という事情を念頭に置いてみることはあまりありません。
つまり、人間が「この国を好きか、嫌いか?」といった判断を下す際には、必ずしもその国のあり方があまねく明確に見えているわけではないということです。この日本についても、おそらく、さらに考察を深めてゆくならば多くの未知の特質が見つかることでしょう。
アマチュアの強みとは、アカデミックな枠組みでは問えないような哲学の問いをガンガン追求できることである。ルソーやニーチェは言うまでもなく、哲学の祖であるソクラテスもまた、言ってみれば筋金入りのアマチュア哲学者であるとも言えるのではないか。
歴史的に見てみても、善かれ悪しかれ、アカデミックな哲学が世界レベルで見ても一定の飽和点をすでに通過してしまったことは明らかである。この時代の哲学の可能性とは、前世紀のアカデミックな哲学の成果を踏まえつつ、大胆にアマチュア路線を突き進むところにこそ築かれるのではないか……。
あまりにもブログ哲学者にとって都合のよすぎる想像であることは否定すべくもありませんが、かのアレキサンダー大王もすべてを自分に都合のよい方向に引っ張って解釈するのが何よりも得意だったといいます。歴史は個人のうちに抱かれた底なしの妄想の深淵から生まれるというのも、あながちに根拠のない考えであるとは思われません。
僕はときどき思う。ひょっとしたらこの時代からは、岩波文庫になるような哲学は、何ひとつ生まれない設定になってるんではなかろうかと。
もしそうだとしたら、僕みたいな人間は、いわば絶対当たらない大穴に全財産をつぎ込み続けていることになる。ピエロだ。だが、僕には、もうどうにも大穴しか残っていないのである。大穴かさもなくば無というのも、ある意味では男の生き様の王道ともいえるのではなかろうか……。
もはや日本とは何の関係もないところに思考がなだれ込んでいるような気もしますが、大穴というイデーのうちには、どこか人間を燃え立たせるものがあることも確かです。国というモチーフに絡めつつ、もう少し大穴の可能性を入念に探ってみることにします。