書かれたものは、どう読まれるかわからない(郵便的不安)。しかし、書くということは、その不確定性を突き抜けようとする試みでもあるのではなかろうか。たとえば、ドゥルーズの書いた次のような言葉を通して考えてみる。
「私たちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けているのである。」(ジル・ドゥルーズ『哲学とは何か』より)
その通りです、としか言いようがないのである。僕もこういうカッコいいこと書きたいけど、嫌われたらどうしようとか思ったらビビって書けないのである。晩年のドゥルーズ先生の厳しい言葉が、魂に突き刺さるのである。
そうなのだ、すばらしい言葉って、まさしく魂に突き刺さる。もちろん、それにしても受け入れられなかったり伝わらなかったりっていうのはあるのではあろうが、しかし、人間をロックするヤバすぎる言葉というのは、確実に存在するのだ。
哲学とか文学とかって、究極すればそういうヤバい言葉に出会えるかどうかがすべてなのではなかろうか。これに出会っちゃったからにはもう今までと同じように生きられないというか、ロックされすぎてもはや発狂せんばかりというか、そういう言葉に遭遇できるかどうかが哲学のアルファにしてオメガなのではなかろうか……。
「最近の人文書って、もはや人文書なのかビジネス書なのかわかりませんよ。」
これは半年前くらいに、ある友人から聞いた証言である。ぶっちゃけ今の人文書とかあんまり興味ないのでこの言葉が合ってるかどうかは僕にはわからぬとしか言いようがないが、いろんなことを言いにくい時代になってるんだろうなーとは何となく思う。
まさにPOISONあるいは反町隆史的な状況になってきてるのかもしれないが、僕は最近、少し前よりも覚悟が決まってきたのである。
十年前はいつかサントリー学芸賞とか取りたいなーテヘペロとか思ってたけど、気がついてみたら人生シャレにならないことになってマジで萎える、ていうか多分何書いてもどうにもならないよもう終わりなんだいろいろ、だけどもういいや、犬死にならばそれもやむなし、朽ち果てるまでに書くべきことを書き尽くすのみである。若者よ、俺の屍を越えてゆけ。ちくしょう、死ぬまでにあと5000個は記事を書いてやる……!