イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「ここが、モリヤ山なのか……?」

 
 話の流れ的に、この際、信仰の問題についても久しぶりに考えておきたいのである。
 

 「……はぁ。」
 

 いやこれね、実はもうずっとこのブログに関して考えてる問題なのである。つまりね、突然そんなこと言われても困るとは思うんだが、僕はキリストを信じる哲学者として、どういう風にキリストについて書いてゆけばいいのかという……。
 

 ぶっちゃけて言えば、僕自身は365日休まずにキリストについて書きまくっていたいくらいなのである。だがしかしだ、それをしてしまった場合、考えるのも恐ろしい話ではあるが、このブログのアクセスが限りなくゼロに近づく恐れがあるのである。
 

 「……でしょうね。」
 

 いや、わからん!こればっかりは僕には皆目わからない。というのも、信仰者には、次のような人生の大原則があるからなのだ。
 

 信仰者の大原則:
 キリスト者はすべからく、彼あるいは彼女の主であるキリストに従って生きるべし。
 

 ところで、キリストは、わたしのことを宣べ伝えなさいと弟子たちに言っている。てことは、何はなくとも世にキリストのことを伝えて伝えて伝えまくるのが、信仰者のあるべき姿ではあろう。
 

 が、しかしである。先進国の世俗化がますます進行し、「神は死んだ」とまで言われてからもはや百五十年近くになろうかというこの現代にキリストについて超ハイテンションで書きまくってたら、マジでこのブログも読んでもらえなくなっちゃうのである。いや、今もそんなに多くの人に読んでもらっているわけではないとはいえ、やはりアクセスゼロというのは僕には純然たる恐怖でしかないのである……。
 
 
 
 キリスト 信仰者 キルケゴール アブラハム イサク イデアの昼と夜 モリヤ山 恐れとおののき
 
 

 ……しかしである。いま思ったが、アクセスゼロになってもとにかくキリストを伝え続けよというのが主のミココロである可能性も、なくはないのかもしれぬ。
 

 主はアブラハムに、最愛の息子であるイサクを全焼のいけにえに捧げよと命じた。『創世記』22章参照。
 

 このブログも、出来がよいわけではないとはいえ、いわば僕のたった一人の息子である(こんなものしかないのではあるが、とにかくこれが僕の人生なのである)。いざという時にはこの息子をも主に捧げる気迫と信仰がなければ、僕は信仰者として失格なのであろうか。
 

 なんか、何がなんでもアクセスゼロになるまでキリストのことを書き続けねばならぬ気もしてきたが、僕が勝手に暴走して壮大に間違ってるのではないかという気もする。しかし、今まさに僕にアブラハム的試練が与えられているような感じもしてきたので、もはやこの問題を避けつづけるわけにもゆかぬ。
 

 わが息子、『イデアの昼と夜』よ。俺はお前を、全焼のいけにえとして捧げねばならぬのか。しかし、僕は今まさに、キルケゴールが『恐れとおののき』でぶち当たった問題に直面しているのかもしれぬ。俺はこれから、俺自身のモリヤ山を登らねばならぬのか……。