イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

若き日の過ちよ

 
 自分の弱さをあらためて確認した上で、もう一度、最初の問題に戻っておくことにしたい。
 

 「筆者は信仰者として、キリストについてどのように書いてゆくべきか。」
 

 くり返しになってしまうが、これは本当にまだ全然わからないのである。ひとつ言えるのは、人間がイエス・キリストに出会うというのは言いようもなく稀であるということだ。
 

 そして、人間がキリストに出会うとしても、それは、その人がいい人間だからというのでは全然ない。人が神に救われるというのは、100%神の恵みによる(救いは行為に対する報酬ではなく、法-外な純粋贈与あるいは絶対恩寵である)。僕がキリストに出会ったのも、ただ自分勝手に生きまくってたら当然の結果として人生に行きづまったというだけなのである。
 

 いや、今でも別に立派に生きてるわけではないが、かつての僕は言葉のあらゆる意味において、罪にまみれていたのである。そのことの詳細はあまりにも恥ずかしすぎて、ここにはとても書けないのである。アウグスティヌス先生とかは青年の頃の過ちを告白しまくってて、その点についてはただすごいとしか言いようがないのである。
 

 おお、若き日々の過ちよ。当時は人生ってすばらしいとか思ってたけど、いやもうマジでやめれ、頼むから正気になってくれと思っても、恥の思い出の数々は決して消えはしないのである……。
 
 
 
 キリスト 信仰者 イエス・キリスト 純粋贈与 絶対恩寵 アウグスティヌス 神の赦し 栄光
 
 

 そういうわけで、少なくとも僕自身にとっては、イエス・キリストにおける神の赦しがなければ、人生を再び始めることはできないのである。
 

 情けなく、恥ずかしき人生(このような述懐が普遍的なものでありうるかどうか、僕は知らぬ)。ていうか、今でも恥はさらし続けている気もするが、さりとて生きるのをやめることもできぬ。この僕に、それでも生きよと語りかけてくださるのは、ただイエス・キリストの父なる神のほかにはおられないのである。
 

 このブログも最初の頃と比べると、だいぶトーンが違ってきている。しかし、以前のことを思い返してもただ恥ずかしくなるだけである以上、なすべきことはもはや、後ろを振り返らず、ただ前を目指して全力で走り続けることだけなのである。
 

 そして、僕にはまだそれだけの強さはないが、本当は、キリスト者としてはすべてをただ主の栄光のためになすべきなのである。神は、ひとりひとりの人間を深く愛している。その愛を伝えるために何をなすべきか、哲学者のはしくれとして、日々考え続けねばならぬ……。