しかし、伝える・伝えないという点はともかくとして、福音の中身とはいったい何なのか。最も重要な中身とは、やはりこれの他にはあるまい。
究極すれば、このことを信じているということが、キリスト者をキリスト者たらしめている根源である。この点、宗派とか団体とかは関係ない。カルトの問題はとりあえず置いておくとすれば、十字架と復活を信じているかどうかが、決定的に重要なのである。
ところで、この辺りのことは、あらためて考えてみるとなかなか興味深いところかもしれない。心の中で信じていることがいちばん大切で、礼拝に出てるとか聖書を読んでるとかだけでは、パズルの最後のピースはまだはまっていないということになる。
それにしても、死者の中からの復活というニュースは、あまりにもぶっ飛びすぎてるニュースではある。僕が最初にクリスチャンの人たちと話してみて、復活を本気で信じている人がこの世にいることを知った時は、正直、この人たちマジでヤバすぎると思ったものであった。
それから五年あまりが経ち、気がつけば自分自身もその復活を信じるメンバーの一員となり、一人前の伝道哲学者をめざして日々をどうにかこうにか歩んでいる。月並みな言い方にはなってしまうが、まことに人間の運命はわからないものである……。
十字架と復活の知らせを聞いた瞬間からすぐに信じる人というのは、おそらくほとんど存在しないであろう。数ヶ月、数年、中には数十年かかる人も少なからずいる。いつどこでこの知らせを信じるようになるかということは、人間には決してわからないのである。
でも、イエス・キリストが死者の中から復活したと信じた人の人生は、確実にそれまでとは違ったものになる。すぐには変わらないかもしれないし、ひょっとしたら、見た目もほとんど変わらないかもしれない。でも、信じてから時間がたって気がついてみると、自分に与えられた人生がめちゃくちゃに輝いて見えはじめるのである。なんかよくわからないけど、とてもあたたかい気持ちで毎日を過ごしてることに気がつくのである。
この正体不明のあたたかい気持ちに、それこそ涙が止まらないみたいな不思議な気持ちに気がつくということが、キリストを信じた人へのいちばん大切な贈り物なのかもしれんなぁ……。話が少し逸れちゃったような気もするけど、毎日の人生が不思議で静かな喜びで満たされるようになったことには、本当に感謝としかいいようがないのである。