イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

素通りしていた留学時代

 
 しかし、人生には何事にも時があるというのは否定できない事実なのである。
 

 ていうか、今思い出したんだけど、僕が最初に本格的に聖書を読んだのは、20代のはじめにフランスに留学していた時だった。どういう流れかは忘れちゃったけど、『ヨハネによる福音書』をその時読んだのである。
 

 僕は夢中になった。なんか、天からパンがたくさん降ってくるみたいな不思議な夢も見た気がする。でも、夢中になったのはほんの一瞬だけだったのである。
 

 留学時代、僕は遊びまくっていた。ヴェニスに行ったり、モロッコに行ったり、友だちとかと毎晩のように夜中までしゃべりまくったり、色々した。この世のことがとにかく楽しすぎて、その奔流の中で聖書のことはいつの間にか忘れ去っていたのである。
 

 本も色々読んでたなぁ……。スピノザとかライプニッツとか、文学で言えばサミュエル・ベケットとか、あらゆる哲学・文学にも手を出していた。今からは考えられないことだけど、正直、その頃の自分にとっては、ジル・ドゥルーズの『襞』とかの方が聖書よりも魅力的に映っていたのかもしれない。
 

 僕はたぶん、あの放蕩息子のたとえ話そのもののような人間だったのだろう。遊びまくって全財産を使い果たしたあげく(お金はそんなに使わなかったけど、とにかく遊びまくった)、気がついたらどうしようもなくなって途方に暮れていたのである……。
 
 
 
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 まさに、わが愚かしさ限りなしとしか言いようのない20代であったが、土壇場のところでキリストに救っていただいたことには感謝としか言いようがないのである。この点については、『アメージング・グレース』(「いかなる恵みぞ」)を何回歌っても歌いきれないほどである。
 

 本題に戻る。というわけで、たぶん神さまの目から見れば、できるだけ聖書に早く出会うに越したことはないとは思うのではあるが、それぞれの人ごとに、聖書と本格的に出会う時期は異なっているのであろう。ていうか、相当人生に追い詰まってたり、相当真剣に人生の意味を求めてたりしないかぎり、あとは大学のレポートでたまたま課題になったりするのでもなければ、この本を手に取ることはなかなかないであろう(尤も、信仰の立場からすれば「たまたま」は存在しないのではあるが)。
 

 が、もしも誰かが聖書のページをめくることが万一あるとすれば、おお友よ、君が手にしているのは、僕が思うにこの世で最も大切な本なのだ。かつて素通りしてしまった身として、どうかさらに読み進めることを願わせてほしい。うっとうしくてごめん。