イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

この世にメシアは必要か

 
 罪についてはいずれまた立ち戻ることにして、今回は前回にちょこっとだけ出てきた、救世主という語について考えてみたいのである。
 

 さて、救世主である。ヘブライ語で言えば、メシアである。僕は、高鳴る胸の鼓動を抑えきれないのである。いやごめん、うっとうしいとは思うんだが、でもさでもさ、メシアだよ!メ・シ・ア!
 

 「……はぁ。」
 

 ……うん。僕だってわかってるんだよ。この孤独な大興奮に、共感を求めちゃいけないってことは。友だちのいない人間が久しぶりに開放的な気分になったせいでちょっとはしゃぎすぎちゃったとでも思って、大目に見てくれまいか。
 

 まいいや、本題に戻る。メシア(救世主)なる存在については、とりあえず次の二択が考えられる。
 

 1. この世はメシアを必要としていない。
 2. この世はメシアを必要としている。
 

 言うまでもなく、キリスト者とは、2の立場に身を置く人々である。「いやもう、ムリなんよ人生とか社会とかいろいろ」。あるいはより真剣ではあるが、「この世界には、メシアでも来てくれないと解決されえない悲惨があふれているのではないか」等々。理由と事情はさまざまであろうが、とにかく、メシアの到来を希望し、生涯をかけてひたすらメシアの到来を待ち望みつづけるというのが、聖書が語るキリスト者の姿なのである。
 
 
 
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 僕はどちらかというと、自分の人生が(自分のせいで)破綻したためにキリストに出会ったという、いわゆる放蕩息子型の典型である。その後の何年かの流れの中で、この世界で苦しんでいる人は本当に多いという事実に、はじめて真剣に向き合わされたのである。
 

 あらためて考えてみると、病気とか紛争とか、個々の人間の力ではどうにもならないことって本当に無数にある。救世主というと、一般には突拍子もなく響くことは確かだけど、この世界にはそれこそ救世主でもなければ解決できないというような状況が、たくさんあるのではないか。
 

 「辛うじてただ神のようなものだけが、われわれを救うことができる。」ハイデッガーの言葉だ。20世紀の哲学者がこれを言ったというのも興味深いけど、少し文脈は違うとはいえ、この言葉には共感を覚えずにはいられないのである。この言葉から「〜のようなもの」という表現を取り去ると、キリスト者の考えとぴったり重なるのではあるが、それはさておき、メシアなる存在についてもう少し考えてみることにする。