イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

時が良くても悪くても

 
 はたしてこれからも、福音について書き続けるべきなのであろうか。しかし、こういう時に依って立つべきは、やはり聖書の言葉であるように思われる。
 

 「御言葉(みことば)を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。」(『テモテへの手紙 二』第4章2節)
 

 時代がよくないとか、昔とは色々違ってるからもうそういうのは通用しないとか、確かにそういうことはあるかもしれん。でも、もういいではないか。どっちにしろ、もう何にも考えずに、自分がこれだと思ったこと言うしかないんよ。
 

 なんかもう色々、あきらめた方がいいと思うんよね。でもその上であきらめちゃいけないことがあって、それは自分が何に依って立つか、何を信じて生きていくかということである。それも放棄しちゃったら、もう本当になんにも無くなっちゃうのである。
 

 僕も、昔よりはだいぶ色々あきらめた。でも、キリストの道を歩みつづけることだけは放棄できないのである。弱さゆえに、道から逸れたり、立ち止まって途方に暮れたりはあるかもしれないけど、それでもこの道をこれからもこのまま歩み続けてゆきたいのである。
 

 ゆえに、もう僕はアクセス問題のことはあまり気にすべきではないのであろう。そう言っても、気になるものはやっぱり少しは気になっちゃうだろうけど、そのことも含めてすべてを納得しつつ、福音を語り続けるというのがわが人生の進むべき道なのではないだろうか。
 
 
 
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 僕が尊敬している、M先生という伝説的な牧師先生(故人)は、牧師としての道を歩みはじめた時に次のように考えたとのことである。
 

 「世界を変えるのは、イデオロギーではなく愛である。」
 

 M先生は、牧師になる前には共産主義の思想に生きようとしていた時期もあったそうである。しかし、先生がけっきょく選んだのは、隣人を愛しながらキリストの道を突っ走るという人生であった。彼は革命ではなく、町の教会で神の愛を語りつづけることを選んだのである。
 

 僕の時代にはたぶん、キリストのことを知りたいと思っている人の数はM先生が生きていた時代よりもずっと少ないであろう。でもそれはそういうものだから、もうそういうものだと納得するしかないのである。それでもキリスト者は、福音を語り続けることをやめるわけにはゆかぬのである。
 

 僕自身も全然根性があるわけではないから、これからくじけたりブレたりもしまくるであろう。でも、へこたれながらもなんとか道を走り続ける気力だけは、最後まで失わないでいたいものである。