信仰者と荒野ということでいえば、やはり『イザヤ書』40章なしですますというわけにはゆかぬであろう。
ヨハネは、イエス・キリストが活動を開始する直前にユダヤの地に現れ、来るべき世の終わりがいよいよ迫っていることを宣べ伝え続けた。むろん、何ひとつこの世の事情を忖度することなしに、主への道をまっすぐにせよ、マジで世の終わり迫ってるがゆえに一刻も早く悔い改めるべしと叫び続けたのである。
「あなたは、どなたですか」「わたしはメシアではない」。
「では何ですか。あなたはエリヤですか」「違う」。
「あなたは、あの預言者なのですか」「そうではない」。(『ヨハネによる福音書』第1章19−21節)
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」(同書第1章23節)
こ、こ、これである。このセリフは、カッコよすぎるとしか言いようがないのである。これって僕だけか。いや、これはもはや誰もがシビれずにはいられないほどの、激ヤバな名ゼリフのはず……!
最近思うのだが、神の言葉を伝える人ってやっぱり、フツーにいい人だという以上の何かが必要なのではないか。
もちろん、いい人なのは大事である。隣人愛の要素は外せぬ。でも、ことが天地を創造した神からの使信を伝えるとなると、やはりこの人ヤバすぎる、完全にイっちゃってるけど何かすごいみたいな部分がどこかで求められるのではなかろうか。
逆を言えば、もし一人前の伝道者になりたいと思うのならば、もはやこの人は微塵もこの世には忖度してねえ、多分マジでこの人、神からの使命のことしか考えてないなこれ的な境地を目指さなければならないということなのかもしれぬ。フェイスブックから記事にいいねされるだけでときめいてる僕なんかは、まだまだひよっ子ちゃんもいいところとしか言いようがないのである。
荒地をさすらい、イナゴと野蜜を日々の糧とし、ただひたすらに主の救いを叫び続けた、バプテスマのヨハネ。この人のことに思いをはせる時、伝道者の卵の一人(一タマゴ)としてはやはり、福音伝道の道のはるかなる険しさを思わずにはいられぬ……。