夜中の2時半にこれを書いているのだが、人間の最も大きな仕事とは、毎日の日々における隣人たちとの関わりなのではないかと昼間に散歩していて思ったのである。
われわれ人間は、毎日色んな他者たちと関わって、話したり、一緒に何かしたり、互いに笑い合ったりする。僕個人の例でいえば、今日はだいたい五人くらいの人と、入れ替わり立ち替わり関わりつつ話をしたのである。
われわれは話をする中で、自分の信念とか価値観とかを表明する。何気ない会話であっても、実は自分が(自分たちが)何を大切にしてるかがたえず表現されつづけているのであって、この点、会話というのはいつでも何かの信仰告白であると言えるのではなかろうか。
「わたしは今までずっと苦しみ続けてきたから、今さら神の愛って言われても全然受け入れられない。」
今週の日曜日に話をした子から言われた言葉である。確かに彼女の話を聞いていると、今までずっと大変な思いをしてきたんだろうなと感じずにはいられない。
彼女とは『ヨブ記』とかも引き合いに出しながら色々話したけど、その時に何て言えばよかったのかは今でもよくわからないのである。自分の中では答えが決まっていることでも、誰かと話すときにそれをそのまま言うべきかとなると、とても難しい問題である。
毎日の日々の中で生きるとか死ぬとかそういう話をすることは、とても大切なことなのではないか。今日も、中学三年生の子と人間がいつか死ぬことについて話をしたけど、これからも生きてるかぎりはそういうことをずっと続けてゆきたいものである。
人生の意味は、毎日どこかで隣人たちと語り続ける、その語り合いの中でしか明らかにされないのではないか。最近、そのことが前以上に身にしみて感じられるようになってきた気がする。
人生ってたまには特別なことも起こるけど、基本的にはこれといったことのない普通の日のくり返しである。でも、人間はそのくり返しの中で毎日誰かと話をしつづける。神さまとか信仰の話も、そういう日々のくり返しの中でこそ意味を持つのではなかろうか。
このブログを書くというのも、いわばそういう日々の対話の営みの一部をなしていると言えるのかもしれない。文章を書いてる時には、ネットにせよリアルにせよ、読んでくれてる人たちのことがぼんやりと念頭にある。誰に向けて書いてるのかわからないこの文章を書くことも、そういう曖昧でありながら具体的な他者たちと対話しつづけることなのではないかと思うのである。