気がつけば、すでに年末である。今回とあともう一回書いたら、2018年もあっという間に終わりである。光陰矢のごとしとはよく言ったもので、現代風に言い直すならば、月日が流れゆくのが速いこと、まさしく無線LANのごとしであると言わざるをえぬ。
しかし、俺のFLET’S光はどうだ。俺の2018年は果たして、哲学していたと言いうるのであろうか。
今の俺に立ち向かいつつあるのは、ただもう冬期講習だ。大みそかも夜中まで冬期講習であるが、これはもうやむをえぬ。われわれは、受験生の子供たちを一人前のジェダイに育て上げ、戦地に送り出さねばならぬ。この点についてはただもう、頑張れ青少年よとしか言いようがないのである。
だが、俺自身の冬期講習はどうか。俺はすでに十五年近く前から、哲学という名の冬期講習を受けつづけている。俺の戦地とはどこだ。俺の死に場所はどこだ。
「武士道といふは、死ぬことと見つけたり。」昔はわからなかったが、なんか最近、死に際の美学とか敗北の美学とか、そういうのがわかりはじめちゃったような気がしていてヤバいのである。ていうかね、最近、考えまくってると前よりも頭がすぐ疲れるようになってきちゃってて、マジで肉体の崩壊が始まってる気がしてめっちゃ怖いのである。
胃酸は食道へと逆流し、目も疲れやすく、さらには頭までも疲労困憊気味となると、なんかもうマジでやるせない気分なのである。人生とはやはりフィッツジェラルドの言う通り、ゆるやかな崩壊の過程以外の何物でもないということなのか。地上の幕屋の内でもんどりうってうめき続ける、われら人間の運命よ……。
今から思うと、昔は人生無限なんではないかとどこかで思い込んでたような気がする。
でも、肉体の衰えがゆるやかにはじまりつつある今、それはマジで幻想であったと悟らされつつある。てか、こんなに早く来るとは思ってなかった。僕は今年で33なんだけど、あと二十年くらいはオールオッケーのままいけるんではないかと思っていた。甘い見通しであった。
だが、昔よりもおそらくましになった点が一つだけある。それは、僕の命がマジで有限だということを、前よりもありありと体感しているということだ。
僕はいつか死ぬ。死ぬのマジで怖い。だがこれはどうやら、何をやっても止められないもののようである。
もっと家系ラーメンとか、食べまくりたかった。でも、食べちゃうとマジで食道がどうなるかわかんないから、今の僕にはゆでたブロッコリーが親友なのである。ラーメンこわい、である。
閑話休題。俺はこれから残りの生涯をかけて、天が俺のために用意した場所へと赴かねばならぬ。このphilo1985の死に場所は、やはりこの国の哲学界であるべきなのではなかろうか。今書いてて、哲学界じゃなくて街の学習塾が自分の死に場所な気もしてきてどうにも動揺を抑えきれんが、2018年の最後は、この問題と格闘しながら迎えることとしたいのである……。