イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

この世では負ける

 
 ヒューマニズムという表現について、もう少し考えてみることにする。
 

 ヒューマニズムっていっても、念頭に置いているのは現代のヒューマニズムカミュとかサルトルとか)ではなく、ルネサンス期のユマニスム(人文主義)なのである。ペトラルカとかエラスムスとかいったユマニストたちに対する共感の念が、ここ数年だんだん強まってきているのである。
 

 たとえば、ペトラルカだ。ペトラルカが何やってたのかというと、田舎とかに引きこもってギリシア・ローマの古典を読みながら、人間についてずっと考え続けてたわけである。僕には、哲学とか文学とかって本質的にこういうものなんではないかと思えてならない。
 

 この世のことって、究極すればどうにもならないのではないか。たとえば、哲学がこの世を変えるっていっても、どうにもならない限界が存在するような気がしてならない。テンションが下がるのは否めないとはいえ、この世はとにかく諦めが肝心というのは、動かし難い真理のように思われるのである。
 

 いや、そりゃphiloさん、この世がっていうか、あなたの人生がしょっぱいからでしょうというツッコミはありうるかもしれぬ。確かにそうかもしれん。でも僕的にはさ、もう人生どうにもならないのが真理だと思うと、なんか安心するのである。何も期待せずに生きてた方が、かえって心地よいっていうかね……。
 
 
 
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 というわけで、このブログを書き始めた頃は「哲学の楽しさを何とかして伝えたい!」とフレッシュに張り切ってはいたけど、今はもうだいぶ諦めモードに入りつつあるのである。最近つくづく思うけど、反哲学の力には、どこまでも根深いものがある。ムリなのだ。いや、ひょっとしたらムリではないのかもしんないけど、僕にはこれ以上がんばることはできない。ふがいなくてごめん。
 

 しかし、ふがいない僕にも、最後の意地というものがある。
 

 この世は少なくともしばらくは、哲学とか人文知とか、あと文学とかも忘却してゆくであろう。大学からも予算は削られてくし。これはもう、どうにもならないであろう。ペシミスティックな見通しではあるが、人文知の未来も明るくはないと思われる。
 

 しかし、われら哲学徒は、それならば誇りとともに滅びてゆこうではないか。いやもう、誇りとかもなくていいかもしれん、ただ黙って哲学し続けようではないか。僕は自宅で本を読んで、ブログを書く。友達もいないいちユマニストとして、ひっそり死んでいってやるんだちくしょう。
 

 マルクス・ガブリエルというドイツのイケイケな哲学者はNHKの番組で、「今の時代にこそ哲学が必要だ」と言っていたが、歴史の流れ的にいって、哲学が必要とされる時代なんてしばらく来ないんじゃないかと思わずにはいられないのである。わかんない。僕の人生がしょっぱいから、負け惜しみで言ってるだけかもしんない。しかし、今日のところはとりあえず偽らざる実感として、ここに「哲学はこの世では負ける」と書き記しておくことにする……。