イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

わたしの誕生をめぐる冒険

 
 これからしばらくの間、久しぶりに、前と同じ丁寧語文体で書いてみることにします。哲学の少し込み入った議論をするためには、こちらの方が都合がよいのではないかと思われるので……。ちなみに、筆者自身は一切の冗談を受けつけない生真面目な性格のせいか、こちらの語り口のほうがやはり性に合っているような気がします。
 

 今回の探求で検討を加えてみたいのは、偶然性の概念についてです。といっても、議論があまりにも無味乾燥なものになるのを避けるためにも、次のような問いを立ててみることにします。すなわち、「わたしには、生まれてこないということもありえたのではないか。」
 

 このブログでは以前に、反出生主義の問題を取り上げました(『反出生主義との対話』)。人間が発する「わたしは生まれてくるべきではなかった」という呻きは、わたし自身の存在の非必然性というイデーに辿りつくこともありうるでしょう。
 

 しかし、どうなのだろうか。わたしには、この世に生まれてこないという可能性も本当にあったのだろうか。これは、あまりにも茫漠とした問いかけであるようにも見えますが、偶然性や必然性といった哲学の概念(これらは様相概念と呼ばれます)は、少なくともこの問いに答えるための手がかりを提供しているように思われます。これから少し時間をかけて、この問いを追求してみることにします。
 
 
 
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 偶然性の概念はここ数十年のあいだ、国内外を問わずさまざまな哲学者によって、以前よりも頻繁に用いられるようになっています。ここではリチャード・ローティとクァンタン・メイヤスーという二つの固有名を挙げるにとどめておくことにしますが、筆者の見るところでは、この概念は往々にして無批判的なしかたで用いられる傾向にあるのではないか。
 

 おそらく、あらゆる時代の哲学は、批判的なしかたで検討されることなく使用されている諸概念を持っています。わたしの誕生というトピックの考察を通して、現代の哲学のうちに暗黙裡にはらまれているドグマ性を明るみに出すことが、今回の探求のライトモチーフとなるでしょう。
 

 ところで、このブログを書きはじめた頃には、哲学の突っ込んだ議論を展開することにはまだ恐れがありました。先日にも書いたように、正直に言うとその恐れはまだ消えていないのですが、人の命はいつ終わるともわからないという事情にも鑑みて、そろそろ蛮勇のふるまいに乗り出してみることにしようかと思います。
 

 勝手気ままに書き散らしているこのブログにもお付き合いいただいている読者の方々がいることは、感謝にたえません。できるだけ哲学的に興味深いものを書くように努めますので、興味のある方はお時間のある時に目を通していただければ幸いです。