イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

カエサルのサイコロ

 
 問題について考えはじめるために、まずは次の点を確認しておくことにします。
 

 「出生の与えはわたしにとって、遡行不可能で一方向的な出来事である。」
 

 よく言われるように、人間は、自分が生まれてきたいから生まれてきたというわけではありません。わたしは、気がついたらこの世にいた。わたしは誕生の出来事(与え)に対して、常にすでに遅れた時点において思考せざるをえません。
 

 クァンタン・メイヤスーも有限性の後でにおいてサイコロを用いた思考実験をしていますが、イメージを掴むために、ここでも類似の実験を行ってみることにしましょう。一人の人間個体に対して、誕生サイコロなるサイコロを設定します。そして、賽の目の割りふりを次のように取り決めます。
 

 誕生サイコロの規定:
 奇数の目が出る→個体は生まれる
 偶数の目が出る→個体は生まれない
 

 たとえば、カエサルという個体に対しては、カエサルのサイコロが一度だけ、宇宙生成前に振られます。出た目が3だとすれば、奇数なのでカエサルは無事にこの世に生まれ、人生の重要な岐路においてルビコン川を渡ることもできるようになります。
 
 
 ところが、カエサルのサイコロを振って、たとえば2の目が出たとすれば、偶数なのでカエサルが生まれることはありません。構造的な不安定性を抱えた共和制ローマにどのような政治的解決をもたらすかは悩ましい問題ですが、その解決は誰かほかの人間に任せるほかなさそうです。
 

 筆者は、神話(ミュトス)は哲学を語るうえで有効な手法なのではないかと考えています。神話はあくまでも神話でしかないことを念頭においた上で(信仰者としては、この点を確認しておくことは重要です)、思考をイメージ化するためにも、次のようなおとぎ話を考えてみることにします。
 
 
 
出生 誕生サイコロ カエサル 宇宙 ローマ 神話 ミュトス 奇数 偶数 おとぎ話
 
 

 この世界が存在するようになる以前に、どこかで誕生サイコロが一度だけ振られた。一度だけといっても、一つのサイコロだけが振られたのではなく、途方もない数のサイコロが同時に振られたのである。その数はちょうど、この世界に生まれてくることになる人間の数の倍ほどであった。これらのサイコロの目の割りふりによって、この世界に生まれてくる人間が定められたのだった。
 

 奇数の目が出た個体には、過去から未来にわたって生まれてくる、あらゆる人間が含まれていた。その中には、カエサルもいればナポレオンもいたし、他の無数の無名の人間たちもそこにいた。2019年以降に生まれることになる未来の人間たちも、すでに宇宙生成前の誕生サイコロによって出生が定められた者たちなのである。
 

 当然、逆に偶数の目が出てしまったために、生まれてくることのなかった者たちもいる。彼らには当然、生みの親も名前もない。彼らは太陽の光すら一度も見ることなく、非存在の闇の中に葬られてしまったのである。
 

 このおとぎ話によれば、ここでこうして考えているわたしもあなたも、運良く(?)奇数の目が出たからこそ、この世に生まれてくることができたということになります。わたしの誕生をめぐる思考の冒険の出発点として、このおとぎ話から得られる教訓について、これから少し考えてみることにしましょう。