イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

反出生主義と哲学のまなざし

 
 ⑵ 誕生サイコロで奇数の目が出ることは、大抵の人にとってはこれ以上ないくらいの幸運であるといえますが、そうではない人たちもいます。反出生主義者と呼ばれる人たちがそれです。
 

 「わたしはこの世に生まれてくるべきではなかった」と思っている人たちとしては、何はなくとも、原初のサイコロの一振りで偶数の目が出てほしかったところでしょう。彼らにとっては、仮にラスベガスのスロットで目もくらむような大金を手にすることができたとしても、分娩されてしまったという最大の災厄を埋め合わせることはできません。
 

 反出生主義者の人たちにとっては、そもそも生まれてこないことこそが最大の幸福です。といっても、何か実体的な幸福がそこにあるというわけではなく、むしろ無が、完全な非存在こそが何よりも望ましいとされるわけです。
 

 天文学的な大当たりによって無数の誕生サイコロのすべての目が偶数の目を出したとすれば、それこそが反出生主義者にとってのジャックポットであり、大当たりの中の大当たりです。その場合には、地球というこの巨大な汚物集積場で人生という名の破滅を生きなければならない人間は一人もいなくなります。できれば、非生物に至るまでのすべての生物がことごとく死滅するのが望ましいですが、人類さえ消えてなくなるのであれば、妥協できないこともありません。
 

 反出生主義者でない筆者としては、少なくとも今のこの国にはこじるりという希望があるというところで慰めを得てほしいところではありますが、原初のサイコロの一振り(cf.ステファヌ・マラルメ)を逃したというところが、反出生主義者の人たちには消えない心残りとなってしまうのかもしれません。「できれば生まれずに済ませたかった」というのが、偶数性の観点から見た時の、彼らの魂の奥底からの嘆きであるといえます。
 
 
 
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 ここでふたたび存在論的差異という概念から考えてみることにすると、反出生主義者は個々の存在者というよりも、存在そのものに絶望しているので、存在者を列挙することによって宗旨替えをうながすという手立てはうまく行きそうにありません。すなわち、こじるりだけではなく、川栄李奈ちゃんもいるではないか、広瀬すずちゃんはどうなのだ、ていうか本田翼ちゃんギザカワユス等々といった説得は遺憾なことに、失敗に終わる可能性が極めて高いといえます。
 

 ここから改めてわかることは、わたしの誕生とはそもそも、存在者の贈与ではなく存在の贈与であるということです。誕生サイコロのような思考実験は、私たちの日常の意識をとりこにしている個々の存在者の次元を超えて、それらの贈与そのものを可能にしている存在の贈与の方に目を向けさせるとも言えるかもしれません。
 

 存在そのものは存在者ではないので目に見えることもなく、ハイデッガーも言うように、ある意味では無に近いところがあるといえますが(尤も筆者としては、この言い方は形而上学的・神学的な観点からしてミスリーディングな表現なのではないかと思うところもなくはない)、存在に対してそれにふさわしい眼差しを向けるということは、哲学や芸術に固有の身ぶりです。筆者も、これからこの国の哲学論壇に戦いを挑む一人の哲学者として、有村架純ちゃんを、いえ、かの存在そのものを凝視しつづけたいと思います。