イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

偶然は誤解され続けるであろう

 
 ⑶ 誕生サイコロについて最後に注意しておきたいのは、原初の偶然は、生者たちによってたえずあたかも何らかの必然であったかのように解釈されつづけるであろう、ということです。
 

 もしもここで問題になっているおとぎ話が真実であったとすれば、わたしには、生まれてくることも生まれてこないこともありえたわけです。わたしはたまたま原初の一振りで奇数の目が出たからここにいるのであり、偶数の目が出ていたら、そもそも何かを感じたり考えたりすることすらなかったでしょう。
 

 にも関わらず、わたしはすでに、現にここでこうして考えてしまっています。この「現にこうして」はおそらく、偶然のもつ偶然性という性格を見えにくくさせずにはおかないのではないだろうか。
 

 たとえば、わたしが人生の途中で次のように思うとします。「今のわたしの仕事は、素晴らしいものだ。わたしは、この仕事をするために生まれてきたのに違いない。」
 

 けれども、サイコロの目が偶数であったとすればわたしはそもそも生まれてくることすらなかったわけですから、そのわたしに前もって定められた運命があるはずもありません。その一方で、わたしが上のような実感を持つということは、大いにありうることのように思われます。
 

 この世に偶然というものがありえたとしても、人間がそれを常に何らかの必然として解釈するのを止めるのは、きわめて難しそうです。運命というイデーのうちには、何か人間にとても根源的なしかたで働きかけるところがあることは否定できません。
 
 
 
誕生サイコロ 偶然 偶然性 奇数 カスミちゃん ツバサちゃん リナちゃん ルリコちゃん 運命 パートナー ヘラクレイトス
 
 
 
 この傾向が最も明瞭なものとなる例の一つは、パートナーの選択です。誕生サイコロというトピックからは逸れてしまいますが、今回の後半はこの主題について少し考えてみることにしましょう。
 

 わたしが全き偶然によって、カスミちゃんという名前の女性に出会い、恋に落ちて結婚したとします。すなわち、わたしは「カスミちゃんに出会うこともありえたが、出会わないこともありえた」という状況のもとで、カスミちゃんと夫婦になったわけです。
 

 おそらくわたしは、結婚してから三十年も経てば、カスミちゃんと出会わなかった自分の人生など考えられない、と思うようになっているはずです。運命だったのだ。カスミちゃんとともに人生の道を歩んでゆくことこそが、わたしの定めだったのだ。
 

 しかし、わたしには本当は別の女性と、たとえば、ツバサちゃんと恋に落ちるという可能性もあったのかもしれません。その場合にはまず間違いなく、わたしにとってはツバサちゃんこそが運命のパートナーだったと思われることになるでしょう。ツバサちゃんだ。僕は、ツバサちゃんと出会うために生まれてきたのだ。
 

 それでは、出会ったのがリナちゃんやルリコちゃんであればどうであったのかといえば、もちろんそれもまた運命のなせる業であり、わが人生は何もかもがオールオッケーであったと思うようになるであろうことは疑いありません。誕生サイコロについてはとりあえず一区切りということにして、引き続きこの路線に沿ってもう少し考えてみることにしますが、その前に、上記のような想像をめぐらせたのは、あくまでも偶然性というヘラクレイトス以来の問題の本質に迫りたいからであって、なんら筆者の人間的不誠実を疑うには及ばないことを記しておくこととします。