イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

懐疑と狂信

 
 わたしの誕生に関する、様相の不可知テーゼ:
 わたしの誕生という出来事に関しては、必然性言明(A)も偶然性言明(B)も、絶対的に正しいものとして、その妥当性を証明することは不可能である。
 

 すでに、相当に理屈めいた議論になってしまっていますが(哲学の宿命として、これには止むを得ない事情があることは確かである)、前回の記事で提出した上記の主張について、さらに考えてみることにします。
 

 数学においても、たとえば、五次以上の代数方程式には解の公式が存在しないことが証明されていますが(アーベル・ルフィニの定理)、すでに触れたように、哲学においても、何ごとかについてそれを知りえないと示すことは、何か知りうることを示すことと同じくらいに重要なことです。ここではそのことを、真理探求における懐疑の必要性という観点から考えてみたい。
 

 懐疑するとは、馴染みのないものとして新しく入ってきた事柄のみならず、すでに自分が知っていると思ってきたことまでをも疑ってみることです。このことの価値を近代のはじめに比類のないしかたで打ち立てたのは、言うまでもなくデカルトですが、おそらく哲学者にとって何よりも必要なエートスの一つとは、懐疑するということを、認識に関わるあらゆる問題において徹底してゆくことなのではないか(ex. カントの批判哲学は、この徹底化が生んだ貴重な成果に他ならない)。
 

 わたしの誕生という目下の問題に関しても、同じことが言えそうです。たとえば、ひとは理性が目覚めはじめる青年期の一時点において、「わたしが生まれてきたことそれ自体には意味なんてなくて、ただの偶然の結果に決まってる」と思うことがありうるでしょう。
 

 しかし、批判的に検討してみるならば、その思考は十分に論証された類のものでは決してなく、むしろ青年期に特有の、ある種の反抗性を伴う形而上学的性向(俗諺では、この性向は「中二病」と称されている)から発されているにすぎないことも少なくありません。もちろん、偶然性の思考を十分に成熟し、批判にも耐えうるような哲学体系に仕上げてゆくという方向もありうることは間違いありませんが、その場合にも、ある出来事が偶然であるということは、少なくとも絶対的な仕方では論証できないということには注意を払っておく必要がありそうです。
 
 
 
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 同じことは、必然性の側に与する哲学者の側についても言うことができます。事物や出来事、あるいは世界それ自体についての必然性をめぐる思索は、たとえばライプニッツにおける充足理由律の定式化という事態のうちに見られるように、哲学上のさまざまな「成果」をこれまでに生み出してきました。
 

 しかし、筆者は、個人的にはそれらを成果と呼ぶことには強く賛同するものの一人ですが、それらを成果と呼ぶのには、ある一定の留保をつける必要があるのではないかとも考えています。というのも、ある出来事が必然であったということ、あるいは、そのような必然性を保証する必然的存在者が存在するということは、論証できる事柄に属してはいないからです。
 

 狂信とは途方もない何ごとかを信じることではなく、自分の信じていることが、信ではなく確証された知識に基づくものであると思い込むことであるなら、この世には普通に思われているよりもはるかに多くの狂信が存在しているということになるのではないだろうか。この意味からすると、哲学の務めの一つとは、徹底した懐疑と批判の作業によって人間の「知識」をひとつひとつ検討することにあると言えるのかもしれません。