イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

社会やめますか

 
 社会をやめたい。人間はポリス的動物であると言ったのはアリストテレスですが、その人間には、ポリスなんてもう沢山だという倦怠感が時おり訪れることもまた事実です。
 

 僕は絶望した。もうムリだ。なんで、他の人たちは大丈夫なんだろう。理由とか聞かれても困る。もう全体的にいろいろ無理なわけで、僕はたぶん、この世には向いてない人間なんだと思う……。
 

 きわめて社交的かつ活動的な人間である筆者には、上のような悩みは無縁であることは言うまでもありません。社会との関係はきわめて良好であり、現在は全般的憂鬱を抱えながら鳴かず飛ばずのブロガー人生街道を順調に前進中ですが、今回、縁あってこの悩みが提起する問題に向き合ってみることにしました。
 

 「人間は、社会の中で生きていかなければならないのだろうか。」この問いに対する答えはほぼ決まっていて、人間には、「然り」以外の言葉を発することが許されていません。原生林や無人島で生活するといったわずかな例外を除けば、哲学にも、さすがにこの答えをひっくり返すことができないのは言うまでもないでしょう。
 

 哲学にできるのは、なぜそうなのか、本当に別の道は存在しないのかを精密かつ仔細に検討することだけです。しかし、この苦渋と絶望に満ちた思考の彷徨の中から、なんらかの希望にも似た諦めがもたらされるということはないのだろうか。社会哲学を追求するというよりは、社会哲学の入口でさまようといった体のものになりそうですが、とにかく、これからこの問題に取り組んでみることにします。
 
 
 
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 超越論的なものの探求という目標を自らに対して設定したことは、近代が哲学にもたらした大きな成果の一つです。しかし、理性には、一足跳びに超越論的なものから始めることは許されていません。理性に必要なのは、経験的なものの中でおのれを訓練すること、そして、その自己訓育の中で経験そのものの構造の方へとしだいに遡ってゆくことであるといえます。
 

 社会哲学の領域においては、おそらくはこのことが特によく当てはまるのではないでしょうか。経験的なものと超越論的なものの相互貫入、その飛躍と転落、その呻吟と上昇こそ、ひとがルソーやヘーゲルの哲学のうちに読み取ることができるものに他なりません。今回の問題に向き合うことのうちで、私たちも、私たちの生きている時代そのものと熾烈な格闘を繰り広げることになるでしょう。
 

 社会について考えるとするならば、本来とは政治とは何か、あるいは国家とは何かといった問題に取り組む必要がありそうですが、今回取り扱うのは、そもそもそういった領域に本格的に目を向ける以前の段階で多大な問題を抱えている人間が悩まされるであろう問題です。そういうわけで、社会の中で元気満点でハッスルしている人にはおよそ無縁な探求になることは避けられなさそうですが、とりあえず、様々な面から見ていかんともしがたくなってしまった人間の立場から考え始めてみることにしたいと思います。