「人間は、社会の中で生きてゆかなければならないのだろうか。」この問いについて考え始めるに当たって、まずはこの問いが何であるかよりも、何でないかという点から始めてみることにします。
考察の開始点:
たとえば、恋愛が人間をしてこの問いを問わせることはない。
わたしが、たとえばカスミちゃんという名前の女性に交際を断られ、絶望の極みに陥ったとします。わたしは日夜泣きに泣き、街をさすらっては涙にむせぶことでしょうが、しかし、そのわたしが「社会なんてもうイヤだ」と叫ぶことはないでしょう。
強いて言えば、この時のわたしの叫びは「なぜなんだカスミちゃんうおおおぉん」でないとすれば、「世界なんてもうイヤだ」あるいは「人生なんてもうイヤだ」なのではないでしょうか。こちらの叫びの方は『信仰者とファム・ファタル』で考えてみたことがあるので、今は詳しく論じません(但し、この方面には後でもう一度立ち戻ることとする)。
それでは、何が人をして「社会なんてもうイヤだ」と叫ばせるのでしょうか。これに対しては、たとえば、自分が働いている職場の雰囲気が耐えられないといった例が考えられるでしょう。
もうイヤだ。人間って、どうしてこんなに陰険で残虐なんだ。上の人たちとか、マジで末端の人たちのこと考えてないよ。もう何もかもがドス黒すぎて、すべてを捨てて逃げ出したい……。
このような人であれば、「社会なんてもうイヤだ」と叫ぶことは十分にありえます。失恋と職場の悩みのどちらが深い苦しみであるかは、時と場合、そして人によって異なるでしょうが、少なくとも、両者の苦しみが質を異にすることは確かなようです。
もう一つ、別の例を考えてみることにします。今度は、そもそも人とコミュニケーションすること自体に対して絶望してしまった人の場合です。
僕はもう、人間自体がイヤなんだ。なんで人間は、他の人間と関わらなきゃいけないんだ。世間話とかフツーにできる人がいることがマジで信じられない。テレビとか見てると、ひょっとしたら自分ってやっぱり頭がおかしいんじゃないかって気がしてくる
……。
筆者個人としては、とりあえずテレビうんぬんに関しては『サザエさん』等の良識的な番組で心を落ち着かせることを勧めたいところですが、軒を元気に駆け回るタラちゃんの愛らしい姿を見ても絶望的な違和感しか感じられないとすれば、その人の苦しみはかなり深いといえます。ともあれ、上のような悩みを抱えた人が「社会なんてもうイヤだ」という叫びを発するとしても決して不思議でないことは言うまでもありません。
それでは、この叫びを発する人に共通の原因とは一体何なのでしょうか。時には専門的な用語に頼ることなく、素朴にこうした問いに向き合ってみることも哲学では大切なことですが、今回の問いは、生きにくさを日々如実に感じている哲学者という種族にとっては非常に切実なものであるといえます。このような問題においては、哲学と実存とが特に切り離しがたいものとなるゆえんですが、このまま行けるところまで行ってみることにします。