イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

経済の要求

 
 そろそろ、議論の中核に入り込んでゆくことにしましょう。
 

 問題の核心:
 人間を最後のところで社会に繋ぎとめているのは、経済的必要性に他ならない。
 

 「社会なんてもうイヤだ。」それならば、もう全部やめて自由を手にすればいいではないかという思考が人間に浮かんでくることは往々にしてありますが、言うまでもなく、それは簡単にできることではありません。私たち人間には、食べるものと住むところが必要だからです。
 

 「もうイヤだ。僕にはムリだ。僕のことはもう、放っておいてくれないか。」しかし、人はそれでも今日のパンを見つけなければなりません。引きこもったまま社会との関係を断ち続け続けてゆきたくとも、今月の家賃は支払わねばなりません。
 

 究極すれば、何かのはずみで大金さえ手に入るならば、社会についての絶望はおそらくほぼ完全に解決するのではないでしょうか。マレーシアの高級マンションに住み、快適なネット環境とグルメな食生活を楽しみつつ、時にはビジネスクラスのフライトで日本にも戻ってくるという生活を送りながら、それでも「社会なんてもうイヤだ」という不平を漏らす人間がいるとすれば、そんな奴は筆者が絶対にぶっ殺……いえ、その場合にはこの社会というよりもその人自身の方に問題があるのではないかということには、反論はほぼなかろうかと思われます。
 

 当然といえば当然の答えではありますが、こうして考え直してみるとなると、この事実の思いをあらためて実感させられます。すなわち、「汝も財産さえ手にしていたのならば、社会について思い煩うことはなかったであろう。」
 
 
 
人間 社会 哲学 研究 広告収入
 
 
 
 うふふ、何となくわかってはいたんだよ。哲学って多分、ほんとに全然お金にはならないんだろうなーって。だから、せめて研究職には頑張って食らいつかなきゃいけなかったんだろうけど、もうでもだいぶ前に大学やめちゃった。こんな僕ってやっぱり、すでに万事休すってことなのかな……。
 

 筆者のような超弩級のカリスマ哲学者ブロガーの場合、広告収入だけで食べてゆくことも可能ではありますが、哲学徒の中には上のような悩みを持つ人もいるかもしれません。書き手というのは卓越した文筆力と明晰この上ない知性を併せ持っていなければ到底やってゆけないという事実の重みを、前もって認識しておいてほしいところです。
 

 いやゴメンうそ、調子乗った。でもさ、僕の人生とかもうほんとマジでどうにもならないっぽいから、たまにはこれ位書いても多めに見てはもらえまいか。僕の人生の見通しは、ほんともう泣きたくくらい甘かったのである。いま昔の僕に出会ったら本気で説教かましてやりたいけど、すでに時遅しとしか言いようがないよ。お金とか、ほんと全然入ってくる見込みないなこれ……。
 

 個人的な感慨はともかくとして、人間を社会に繋ぎとめているものの正体が、明確になりつつあることは確かです。ひとが社会をやめられない理由について、もう少しこの路線に沿って考えてみることにします。