イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

問題の還元

 
 問題の核心:
 人間を最後のところで社会に繋ぎとめているのは、経済的必要性に他ならない。
 

 この論点を掘り下げてゆく上でまず最初に注意しておきたいのは、お金の話というのは、すべての人が非常にセンシティブにならざるをえない問題であるということです。
 

 たとえば、誰かある人が談話の場で、不用意に「お金よりも大切なものはいくらだってある」と発言したとします。
 

 中には立ち上がって「その通りだ!君と僕とは友達だ!」と握手を求めてくる人もいるかもしれませんが、「何言ってんのよそんなこと言ったってお金がないと生きていけないじゃないのキエエエエェ」といった感情的な反応が返ってくることも決して珍しくないと思われます。
 

 誰もが無関心ではいられない領域であるだけに、話題に出す際には細心の注意を払わなければならない。そのことは、今の私たちのように、純理論的な哲学探究を行う際であっても例外ではないといえるでしょう。
 

 そのことを確認した上で、本題に戻ります。さて、上の言明からは、次のような派生的言明を導くことができるのではないだろうか。
 

 問題提起:
 社会についての絶望は、たとえそれが一見すると金銭の問題とは関係がなさそうに見える時であっても、最終的には金銭の問題に還元することができるのではないか。
 

 たとえば、学校での人間関係が憂鬱すぎて絶望している人がいるとします。このような場合、彼あるいは彼女の悩みは、見たところお金の問題とは全く関係がないように見えることは確かです。
 
 
 
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 しかし、その人は究極すれば、イヤならば思いきって学校をやめてしまうこともできるわけです。「でも、学校はやめられません。」それはなぜか。将来のために、学校に行くことが必要だからです。そして、将来のためにというのはつまるところ、将来お金を稼がなければならないということに他なりません。
 

 つまり、仮にその人が十億円程度のお金(金額については議論の余地はあろうが、要するに一生の間困らないだけの財産)をすでに持っていたとすれば、学校をやめることはそれほど困難なことではありません。そして、このことは他のさまざまなタイプの社会への絶望についても、等しく当てはまるといえるのではないか。
 

 要するに、十億円さえあれば、どんなイヤなことがあってもやめちゃえばオールオッケーなのである。いわば、究極の裏技である。まぁ、そんなこと言っても肝心のそのお金がないから、今日もこうして憂鬱な毎日を送ってるんだけどさ……。
 

 十億円さえあれば人生の問題のかなりの部分は解決するのかと思うと、なんだか不思議な感じがしますが、身も蓋もない話であるとはいえ、十億円が社会についての絶望を跡形もなく消し去る究極の万能薬であることは、どうも否定できないように思われます。いくら考えても預金残高は一円たりとも増えはしませんが、もう少しこの論点をじっくりと掘り下げてみることにしたいと思います(このような無益な時間の浪費が、筆者を福沢諭吉翁から遠ざけている側面があることは否めない)。