イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

有用性への駆り立て

 
 問題提起:
 社会についての絶望は、たとえそれが一見すると金銭の問題とは関係がなさそうに見える時であっても、最終的には金銭の問題に還元することができるのではないか。
 

 ここで言われているのは、いわゆる「お金さえあれば何も問題はない」といった主張ではありません。
 

 仮に十億円(繰り返しになるが、金額の多寡には議論の余地はありうる)を持っていたとしても、愛情面・健康面等々といったさまざまな側面で人生に絶望することは十分にありうるでしょう。しかし、その絶望が「社会についての」絶望であるならば、そのほぼすべてが十億円によって解決するのではないかというのが、上の問題提起で主張されている内容になります。
 

 十億円があればこの絶望から解放されるとわかったところで、実際に十億円を持っていなければどうにもならないのは言うまでもありません。しかし、ひとが「社会なんてもうイヤだ」と叫びたくなる時、この絶望は十億円さえ持っていたならば思いわずらう必要のないことであったと考えることは、その人に、諦めにも似た慰めを与えることはできるかもしれません(問題に対する思弁的治療)。
 

 死にたいとか消えたいと思っている人でも、十億円もらうなら生きてていいかなって人って、かなりいるんではないかって気がする。もちろん、人生それだけではないのは確かなので、不用意に普遍化できないのは確かだけど、あぁお金さえあったら絶望してなかっただろうなーって考えるのって、なんかちょっとだけ癒される。それって僕だけか……?
 

 いくら収入が増える見込みがないとしても、世界から見れば日本の状況が経済的に非常に恵まれていることは間違いなさそうなので、この点については不平は漏らさないでおいた方が無難かもしれません。もっとも、GDPと国民の幸福度の間に高い相関性があるわけではないという事実を鑑みると、問題は非常に複雑なものであらざるをえないとも言えそうですが……。
 
 
 
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 ここで、貨幣は商品であるというマルクスの卓見を念頭に置きつつ、貨幣あるいは金銭なるものについてもう少し掘り下げておくとすれば、「お金になる」とは、究極的に言えば「社会において、他者から必要とされている」ことを意味します。
 

 人を社会に繋ぎとめているものがつまるところ「生活費を稼げ!」という指令であるとすれば、この指令は「有用な人間たれ!」と言い換えることもできそうです。すなわち、「社会なんてもうイヤだ」という呻きとは、有用であり続けることを絶えず求められていることからくる叫びであるということができるかもしれません。
 

 うふふ。哲学がこの世でもっと必要とされてたら、僕もひょっとしたらもうちょっとは何とかなってたのかもな。でもね、ブログを四年近く書いてみてわかったけど、全然そうじゃなかったんよね。わかんない。単に僕の書くものが超絶つまんないってだけかもしんない。でもとにかくさ、一つ言えるのは、僕のこのブログはほとんどこの世から必要とされてないってこと……。
 

 とはいえ、普段からこのブログに目を通してくださっている希少な読者の方々がいなかったとしたら、筆者はすでに遠い昔に重度かつ包括的な絶望に襲われていたことでしょう。この点については、最大級の感謝が必要とされるゆえんですが、ともあれ、有用性という観点は非常に重要なものなので、もう少しこの点について考えてみることにします。