イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「最後の手立て」

 
 有用性の論理によって人間を絶えまなく駆り立てる惑星規模の機構のことを、マルティン・ハイデッガーはゲシュテルと呼びましたが、このゲシュテルの中で崩れ落ちてゆく人間は、最後の手立て(?)に訴え出ることになります。
 

 最終手段:
 引きこもることは、自己を投げ出しつつ有用性の論理を拒絶しようとする、人間の行為ならぬ行為である。
 

 ていうかね、もう手段とか拒絶とか、そういうんでもないんだ。ただもうムリなだけ。ごめん、許して。ていうか、もう誰かと話をする元気すらもないよ。ほんとごめん、あとちょっとだけでいいからもう少しだけ、そっとしておいて……。
 

 引きこもることはいわば、精神的に自己破産することであると言えるのかもしれません。もうあの職場では働けない、これ以上人間と関わることができそうにない、どうしてもエヴァには乗りたくない等々、事情はさまざまであるとはいえ、自分が今乗っているすべてのレールから脱線して、社会との繋がりを絶つわけです。
 

 「そんな、無責任な。」ごめん。ほんとごめん。でも、ムリなんだ。どうやってこのムリさを伝えたらいいのかわかんないけど、ほんとムリなんだ。多分、人によっちゃ僕みたいな人間のこと許せないって人もいるのかもしんないけど、いやもうほんと、ただごめんなさいって言うしかないよ……。
 

 このような呻きをもらしている人にどう接すればいいのかは、非常に難しい問題です。ただ、実際にそうであるかは別にするにしても、このような人が自分のことを「有用性ゼロ=役に立たなくなってしまった人間」と認識している可能性は高いので、隣人愛の観点からはできるかぎり優しく接することが望ましいのではないかと思われます。
 
 
 
有用性 マルティン・ハイデッガー ゲシュテル エヴァ
 
 

 このように引きこもることに対して、「それは単なる甘えに過ぎないのではないか」という批判を投げかける人がいるということは事実です。
 

 そして、ひょっとすると、そうした批判も完全に根拠がないとは言い切れない場合もなくはないのかもしれません。いわく、誰もが無理をして頑張っているのに、なぜその人だけ逃げ出すことが許されるのか……というわけです。
 

 しかし、体の病で動けなくなってしまうことがあるように、人間には、社会との関係の中でどうにもならなくなってしまうということもあるのではないだろうか。少なくともある一定の期間の間ということであるならば、何もせずに休養をとるということもあってよいのでは……。
 

 ほんとのこと言うと、僕はもう、これから先も社会の中でがんばりたくない。でもさ、それやっちゃったらさすがにダメだってことは、僕もわかってるつもりではあるんよ。ほんとあと少しだけでいいから、僕に休ませてはもらえまいか……。
 

 実際に、引きこもるという行為ならぬ行為に移るかどうかは別にして、おそらく、私たちの時代を生きる少なからぬ数の人が、このような感覚とは無縁ではないのではないでしょうか。この感覚を、豊かさの中での甘えとみるか、それとも、豊かさの中で破裂しそうに膨れ上がっている有用性の要求に対する呻きとみるかは、この問題について考えるそれぞれの人の判断に委ねられているといえます。