イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

公共圏と親密圏

 
 引きこもることの超越論的構造についてさらに考察を進める前に、それに必要な論点を付け加えておくことにします。
 

 社会に関する一視点:
社会には、公共圏と親密圏という二つの領域が存在する。
 

 有用性の論理からの要求は人間にとって、時に非常に厳しいものとなりえますが、この要求の苛烈さから人間を守ってくれる人々がいないわけではありません。家族、恋人、親しい友人といった人々がそれです。
 

 何ごとにつけ、うじうじせずにはいられない僕みたいな人間が生きてゆくためには、方法は一つしかない。それは、一緒にうじうじできる、うじうじフレンドを持っておくことだ。そんなに数は多くないけど、うじうじしたい人って実はどこにでもいないわけではないから、これでも結構、か細くではあるけどやってゆけないわけではないんではないか……。
 

 政治・社会・経済活動が行われる公共圏の広大さに対して、親密圏のスケールは非常にこじんまりとしていますが、公共圏からやってくるプレッシャーから人間を守る上で、親密圏の人々は重要な役割を果たしています。ちなみに親密圏もまた、有用性の論理ではなく、その人をただその人であることで受け入れるという、存在の論理によって機能していることは、ここで付け加えておいてもよいかもしれません(doingに対するbeingの次元)。
 

 いわゆるセカイ系のフィクションは、公共圏の存在が完全に無化されて、世界の運命が親密圏の狭小領域によって左右されるようになった状況を描くものであると言えるかもしれません。これは、一面ではフィクションの比較的新しい可能性を切り開くものですが、他面においては、公共圏の拒絶と親密圏への徹底的な引きこもりを無意識のうちに形象化したものであるといえそうです。
 
 
 
公共圏 親密圏 有用性 超越論的構造 セカイ系 フィクション
 
 
 
 親密圏のあり方は、当然、人によって大きく異なってきます。筆者個人に関して言うならば、筆者は先日、父方の祖母と久しぶりに電話口で話す機会がありました。しばらく会えていなかったのでしんみりとした気分になり、また、祖母は自分にとって、やはりいつでも優しい祖母であったという感慨にも打たれ、不覚ながら、その場で話をしながら落涙してしまったのでした。
 

 このまま終わっていたならば麗しき美談であったはずが、祖母はどうやら、祖母への愛ゆえに流した筆者の涙を、うだつの上がらない自分自身の人生の惨状に対する悲哀の涙と誤解していたらしく、後日、母を通じて「フィロちゃんもかわいそうね」という憐憫の言葉を受け取りました。その後の数日間は非常に複雑な気分が続いていましたが、現在の筆者は、その時に負った心の傷からようやくほぼ元通りに回復しつつあります。
 

 ともあれ、親密圏の機能というテーマは、グローバル資本主義がもたらす様々な問題の中で揺れている現代の公共圏との関わりという点からみても、極めて重要なものであることは疑えません。なお、筆者自身としては、業界でも噂で持ちきりの匿名超絶カリスマ哲学者(戦闘能力測定不能)としての尊敬を受けるならばともかく、「この人の人生しょっぱすぎてマジ泣けるw」との同情はあくまでも不要であることを最後に付け加えておくことにします。