イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実存の苦しみと準-親密圏

 
 もう一度、引きこもることについての考察の方に立ち戻ります(ここでは、概念によって規定されうるような引きこもることの超越論的な構造を問うことが問題なのであって、実際の心と体を通して体験される経験的な「引きこもり」の現象について論じることが問題なのではないことには、注意しておく必要がある)。
 

 引きこもることの苦しみの内実:
 引きこもることの苦しみとは、実存的な苦しみである。
 

 人間を最終的に社会に繋ぎとめているものは、経済的な要求に他なりませんでした(この点については、以前の記事を参照)。しかし、引きこもるという行為ならぬ行為のうちでは、この要求からくる圧迫の意味そのものが、その性質を変えるようになります。
 

 経済的な要求からくる指令「有用たれ!」に応じることができなくなってしまった人間は、自分自身のことを「有用性ゼロ=役に立たなくなってしまった人間」として受け止めざるをえません。その結果、彼あるいは彼女の苦しみは、もはや単に社会-経済的な次元に関わるものではなく、実存そのものの次元に関わるようになります。
 

 「わたしは、存在していてもよいのだろうか。」以前の記事でも論じたように、たとえば現代のこの国においても、日本国憲法第25条のような条文や、さまざまな社会保障制度などは存在しています。しかし、そうした社会的な枠組みがあるとしても、この実存的な苦しみに対して慰めが与えられるとは限らないのではないだろうか。
 

 究極のところでは、おそらく引きこもる人間が求めているものは、社会-経済的な解決より以前に、自分自身の存在を誰かに認めてもらうことにほかなりません。何も生産することができず、どんな活動にも参与することができなくても、自分は存在していてもよいのだと認めてもらっている感覚が持てないところに、実存的な苦しみの核心があると言えるのかもしれません。
 
 
 
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 すでに論じたように、この苦しみの中で人間を社会のうちにとどまらせるものとは、基本的には親密圏の人々(家族、恋人、友人etc)とのコミュニケーションであると言えそうですが、社会の中には、準-親密圏と呼びうるような領域も存在しています。たとえば、近年、以前よりもさらに急速な発達を迎えつつあるこの国のアイドル文化は、その最もめざましい例の一つであるといえるかもしれません。
 

 突き詰めるならば、アイドルが私たちに提示し続けているメッセージとは「純粋な愛が存在する」あるいは「愛の純粋贈与が存在する」というただ一点に集約されるのではないだろうか。有用性の論理からの要求がしだいに激化してゆく中で、彼女たちの発信するメッセージは、「楽しんでね」から「元気になってね」へ、さらには「死なずに生き残ってね」へと、次第にそのトーンには実存的な深刻さが増してきているようにも感じられます。
 

 多くの人に病むことを免れさせている当のアイドルたち自身が置かれている状況も、激しい有用性の論理の要求の下にさらされており、決して楽なものではないようですが、この点に関しては、この領域に無知な筆者には論ずる資格はなさそうです。これ以上の考察はこの分野の識者に委ねつつ、私たちは社会についての問いをさらに掘り下げてみることにしましょう。