イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

純粋愛の問題

 
 引きこもることの苦しみの内実:
 引きこもることの苦しみとは、実存的な苦しみである。
 

 社会の次元はその危機的な尖端において、実存の次元の深淵に接することになります。
 

 この次元において問題となるのは、もはや政治や経済ではなく、形而上学と神学です。その意味では、引きこもる人間が向き合うことになる問いは、その本質においてはすぐれて存在-神論的なものであると言うこともできるのではないか。
 

 引きこもる人間の問い:
 純粋愛なるものは、存在するか?
 

 有用性の論理(doingの論理)によって左右されることのない、純粋な存在の論理(beingの論理)というものは働きうるのか。より分かりやすい言い方で言うならば、何かの役に立つから存在していてもよいというのではなく、ただ存在しているというだけでその存在を認められるという論理は、この世に存在するのだろうか。
 

 問いに関する二択:
 1. 純粋愛は存在する。
 2.純粋愛は存在しない。
 

 通常の場合においては、有用性の論理と存在の論理が混合して現象しているために、上のような二択が問われることはまずありません。「有用性ゼロ」という危機的な地点に立たされた人間にして初めて、この問いが極めてリアルなものとしてその身に迫ってくるようになります。
 

 しかし、この問いは本当は、あらゆる社会が自問しておくべき問いなのではないか。筆者も哲学者の一人として、この機会に「あらゆる社会はその十全な存続のために、純粋愛の存在を必要としているのではないか」という問いを提起しておくことにしたいと思います。
 
 
 
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 純粋愛とは、何の見返りを求めることもなく、ただ与えられるだけの愛を意味します。これは言うまでもなく、法-外な愛の贈与であり、人間の社会がこのような贈与を完全に実現しうるというのは、単なる夢物語に過ぎないのではないかと思えるのも確かです。
 

 しかし、すでに何度か取り上げた、日本国憲法における生存権の例をはじめとして、人類はこの贈与を部分的にせよすでに実現しはじめています。カント風に表現するならば、純粋愛の理念は、社会的理性を統制する純粋理念として、この理性の実践的行使を方向づけるものであるとでも言えるかもしれません。
 

 純粋贈与の論理は人間からすると途方もないものであって、この論理の働きを具体的にそれと分かる形で目にすることはほとんどないと言ってもよいかもしれません。この意味からすると、たとえば生存権のような権利が憲法の条文のうちに明記されているという事実は、改めて考えてみるとまさしく驚天動地としか言えないほどのものであるともいえそうです(実際にこのような権利がそれとして認められるようになったのは、ここ百年ほどのことに過ぎない)。
 

 引きこもる人間の特異性とは、このように途方もないものである純粋愛の存在の有無を、まさしくその実存のただ中において問わざるをえない地点に立たされていることであるといえます。今回の探求もそろそろ終わりに近づいていますが、この問いかけの行く先をもう少し追ってみることにします。