イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

われわれは共生する、望むと望まざるとに関わらず

 
 ケアの関係(前回の記事参照)のただ中においても、人間は、次のような問いとはどこかで向き合い続けることになります。そして通常の場合、この問いから逃れることは誰にもできません。
 

 ケアされる人間への問い:
 汝は、社会の存在を望むか?
 

 ケアされる人間はそもそも社会そのものに絶望していたからこそケアされていたわけなので、この問いが酷なものであることは間違いありません。しかし、この問いから逃げることはできないということは、誰もが直観的に理解しているのではないだろうか。
 

 現存在の置かれている状況:
 人間は、親密圏の中だけで生きてゆくことはできない。
 

 いやほんと、これも言ってもしょうがないんだけどさ。僕は思うんよ。なんで人間って、仲いい人とだけ一緒に生きてゆくってわけにはいかないんだろう。
 

 でもさ、社会ってそもそもそういうもんだっていうのは、多分しょうがないことなんだろうね。ごめん。色々きつすぎてほんと泣きそうだけど、やっぱりもう少し頑張ってみるべきなのかな……。
 

 人間は、共生して社会をつくるということから多大な益を引き出しています。上のようにため息をつく人も同意することでしょうが、この益が親密圏を越えて広がる公共圏の存在なしには成り立ちえないということには、議論の余地はなさそうです。
 

 問題は、原理的には益を生み出すものでもある共生という条件が、人間にとって抑圧的なものとして悪しき働きをなしてしまう可能性も常に存在していることです。人類の歴史は、共生によってもたらされる善と悪の双方について、これまでわれわれに語り続けてやむことがありませんでしたし、おそらくこのことは、これからも変わりがないでしょう。
 
 
 
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 マザー・テレサはかつてこの国を訪れた時、この国は世界の国々の中でどこよりも豊かだけれど、この国の人々の心はとても貧しいという言葉を残してゆきました。
 

 この言葉が的を得たものであるかどうかは別として、共生するという事実は政治や経済の次元に関わるだけでなく、言葉や食べ物、そしてそれぞれの人間の心のあり方にまで深く関わっています。この意味では、「私たちはどのような社会を望むか」という問いは、私たちの生のあらゆる領域に関係せずにはいないものであるといえます(ex.ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、そのアヴァンギャルドな表現を突き抜けて本質を見通すならば、この事実を注視しつつ生きよとの呼びかけに他ならない)。
 

 ジャン=ジャック・ルソーは近代社会哲学の基礎を築いた人物ですが、そのルソーは、現代でいう引きこもり体質を非常に強く持った人だったようです。東浩紀氏の『一般意志2.0』はこの事実に対する深い洞察に導かれて書かれた本であるといえますが、共に生きることの喜びに対する鋭敏な感覚を持つ人はまた同時に、共に生きることによって深く傷つく人でもあると言えるのかもしれません。
 

 「汝は社会を望むか?」という問いは、「汝は他者たちと共に生きることを望むか?」と言い換えることもできそうです。この問いの構造と意味を探ることが、おそらくは、今回の私たちの探求の最後の作業になるでしょう。