イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

フィクションは悪か

 
 そういうわけで、哲学です。早速ではありますが、今回探求したい問題は、この記事の表題の通り、「フィクションは悪か」というものです。
 
 
 おそらく、現代人に「あなたは、フィクションは悪だと思いますか?」と尋ねたとしても、ほとんどの人は戸惑うか、あるいはノーと答えることでしょう。映画にせよ、マンガやアニメにせよ、今の社会は、まさしく無数のフィクションに埋め尽くされているかのような観があります。
 
 
 先進国の資本主義は、いまやフィクションを活用することなしには機能しえないことは間違いありません。マンガやゲームが流通するだけでなく、それらが実写化され、2.5次元化され、メデイアミックスし、キャラクター商品の物販は拡大の一途をたどっています(アニメイト化する社会)。商品の広告やキャンペーンにも、架空のキャラクターが用いられることはますます頻繁になってきているように感じられます。
 
 
 このように、われわれの文明はいわばフィクションの文明とでも呼ぶべき様相を呈してきているので、フィクションを悪だと断定することは、その人の社会的な生命を危うくするか、あるいはもっとありそうなことですが、完全に無視されることでしょう。もちろん、筆者にもそのようなことをする意図がないことは、言うまでもありません。
 
 
 しかし、「フィクションは悪だ」ではなく「フィクションは悪か?」という問いを立てて自由に考えることができることは、哲学の大きな強みです。これからしばらくの間少し腰を据えて、この問題について考えてみることにします。
 
 
 
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 いや、僕は思うわけですよ。哲学というのはもちろん、真理を探求するわけである。しかるに、真理なるものはこの世ではほとんど人気がない。魂を燃え立たせながら「やはり人間は真理を求めねばならん」とか言ったとしても、たぶん「何この人、なんかキモいしホワイトキックゥー(死語)」くらいの扱いが関の山である。
 
 
 しかしだ。その一方で、マンガとゲームは、もう若者に大人気なわけですよ。実況動画とコミケには、人もアクセスも集まり放題ですよ。ちくしょう、僕も小説でも書けってのか?でも、純文学は売れないよ。ホラーかラノベかハリポタでもなきゃ、当節は売れはせんのだ。ちくしょうブッ殺す!キエエエエェ!
 
 
 上のような愚痴を漏らす人は、おそらくは自分自身の人生がそれほどうまくいってはいないのではないかと懸念されますが、「フィクションは悪か」という問いは、このような怨念とは関係のない、純理論的な哲学の問題に他なりません。真理を探求する際には、それこそ一切の私的な事情は排さなければなりません。
 
 
 もうイヤだ。多分、哲学とかいくら書いても、マジでどうにもなんねぇ。わからん。単に、僕の書くものが超絶つまらんってだけなのかちくしょう。いや、前の記事で書いたけど、出版社から連絡は来たんよいちおう。だが、アクセスが足りんのだよアクセスが。僕の人生は、永久にうだつが上がらんのかこのうんこたれが……。
 
 
 「うんこたれ」という表現が高貴かつ瀟洒なこのブログの品位にそぐわないことは間違いありませんが、ともあれ、書いたものを自由に公開する場が与えられていることについては、現代のテクノロジー株式会社はてなに感謝するほかありません。与えられた運命を慎んで受けつつ、カリスマ非正規雇用哲学者生活(アクセスゼロへの飽くなき挑戦)を享受することとします。