イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

芸術といわゆる「善悪の彼岸」

 
 フィクションに関する一事実:
 およそいかなるフィクションにおいても、因果応報の原則が働いている。
 
 
 夜神月が大量殺人によって「新世界の神」になることが決してできないのと同じように(前回の記事参照)、私たちは、因果応報の原則が機能しないような作り話を考えることができません。
 
 
 もちろん、すでにその名を挙げたマルキ・ド・サドの小説のように、この原則が機能しない一部の作品は確かに存在していますが、このようなアヴァンギャルド作品は、あえてこの原則を無視しようという確信犯的な意図に従って書かれているので、かえってこの原則の普遍性を確証しているようなところがあります。
 
 
 この観点からすると、『時計仕掛けのオレンジ』のような映画は、善悪の彼岸の存在を示すというよりも、人間にとって、善悪の次元があくまでも踏み越えることのできないものとしてとどまり続けることを逆説的に証ししてしまっている映画であると言うことができるかもしれません。ジャック・ラカンのような人は、この踏み越えがある種のリミットにおいてまるで幻影のようにして現れることしかできないという事情に深く通じていたように思われます。
 
 
 おそらく、芸術は道徳とは無関係であるという見方は多かれ少なかれ中二病的な色彩を帯びたナイーブな一意見に過ぎず、本質的な芸術家になればなるほど、倫理意識もそれだけ鋭敏であるというケースは数知れません。近代から現代にかけて登場した反モラルの諸作品をどのように考えるべきかという問題は、それ自身独立した論考を必要とするように思われますが、いずれにせよ、芸術作品においても倫理法則が働いている(cf.ニヒリストは、自らがそう思っている以上に道徳的である)という一般的事実が否定されることはなさそうです。
 
 
 
 ニヒリスト 善悪無記 アディアフォラ 芸術 時計仕掛けのオレンジ 善悪の彼岸 倫理法則 モラル 村上春樹 トム・ヨーク
 
 
 
 ただし、現代の芸術家たちは、善悪の彼岸を描くことによってかえって善悪の次元の痛切さを強調するというコントラストの技法を用いることが多々あるので、この辺りの事情は多少複雑になっていると言えるのかもしれません。村上春樹トム・ヨークといった人たちの作品が、善悪無記(「アディアフォラ」)の世界に通じていながらも、ある意味ではこれらの作品ほど倫理的な作品も少ないといった消息になっているのもそのためです。
 
 
 おそらくここには、倫理という主題について考える上で非常に論点が含まれています。
 
 
 「汝、殺すなかれ」という掟の声を十全に聞き取ることができるようになるためには、この掟が守られることのない反-世界の存在をすでに何らかの仕方で感じ取ったことがあるのでなければならない。この意味では、芸術の役割の一つとは、人を殺すのにためらうことのないこの世のただ中において「汝、殺すなかれ」の声を断固として響かせることに存すると言えるのかもしれません。