イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ジョン・ドウとハリウッドの暗黒面

 
 フィクションに関する「危険」:
 フィクションには、その作品を誤読あるいは誤解してしまうという危険が常に存在する。
 
 
 たとえば『源氏物語』を読んで、男女の愛というものは、どんな場合であってもひとたび生まれてしまったらそれを追いかけるしかないのだというメッセージを受け取るとすれば、浮気や不倫が無際限に肯定されるという結果をも生み出しかねません。
 
 
 話は海外に移りますが、ドラッグ漬けの若者たちの生活を軽快かつ皮肉交じりに描いた映画『トレインスポッティング』も、一部からは薬物を美化しているとの批判を受けました。作品内で描かれている「悪徳」が模倣されてしまうという危険は、多かれ少なかれ、あらゆるフィクションにおいて潜在的に存在していると言えるのではないか。
 
 
 猟奇殺人をテーマとしたサスペンス映画『セブン』を取り上げてみましょう(以下、ネタバレ注意)。この映画に登場する殺人犯、ジョン・ドウには、この役を演じているケヴィン・スペイシー(彼をめぐる近日のスキャンダルには、本記事は言及しない)の圧倒的な個性も相まって、ある種の異様な「カリスマ」が漂っています。
 
 
 七つの大罪を犯す人間たちを罰しなければならないという狂信の強固さ、凶行に及ぶその実行力、そして、最後のシーンで自分の立てた計画に従って死を迎える際の「宗教的」とも言える静謐さに至るまで、彼の人間性がこの映画のうちで、ある種の「美化」の作用を被りつつ表現されていることは否定できません。
 
 
 
f:id:philo1985:20190421072955j:plain
 
 
 
 おそらく、『セブン』の興行的成功はそのかなりの部分、この「美化」の効果に負っています。刑事役のモーガン・フリーマンブラッド・ピットのコンビを巻き込んだ衝撃のラストは、その凄惨さと倫理的なタブー感も合わせて映画史に残るワンシーンになっているので、興味のある方はTSUTAYA等のレンタルビデオ店でお借りになってご覧ください(信仰者としては、DVD鑑賞よりも賛美歌の詠唱を勧める)。
 
 
 注意しておくべきなのは、ジョン・ドウがハリウッドの映画においては決して孤高の存在ではなく、数多く存在しているサイコ・キラーたちのうちの一人に過ぎないという点です。ハリウッドは、「魅力のある」サイコパスを次々に生み出すことによって世界中でドルを稼ぎ出しているということは、フィクションなるものの是非を考える上でも心に留めておいてよい事実かもしれません。
 
 
 事は、ハリウッドに限りません。試しに映画館に行って、邦画でも洋画でも構いません、映画の予告編に目を通してみましょう。そこに映し出されているのは、麗しき美徳でも、大自然の美しさでもありません、その大半が殺人であり、貞子の怨念と恐怖であり、毒にまみれたセックスです。そこでは、きらびやかなセレブ生活が無批判的に賞賛され、殺人犯たちはといえば、彼あるいは彼女の犯した罪が猟奇的であればあるほど崇めたてまつられるというわけです。
 
 
 むろん、筆者としても『HACHI』や『劇場版とっとこハム太郎  ハムハムランド大冒険』のような良識的作品が一部には存在していることを認めないわけではありませんが、例外の存在は一般法則の妥当性を否定するものではないということもまた、忘れるべきではありません。哲学徒たるわれわれとしては、虚飾と悪徳のスクリーンからは身を背けつつ、ただ書斎にて『国家』『純粋理性批判』『存在と時間』等の古典の精読に集中したいところです(ただし、有村架純ちゃん主演映画に関してはこの限りではない)。