イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

フィクションと、罪や悪徳の関係

 
 フィクションの是非に関する一論点:
 この世に流通するフィクションの多くが、罪や悪徳を取り扱っている。
 
 
 たとえば、次の二つの映画のうち、どちらが大ヒット記録する見込みが高いと思われるでしょうか。
 
 
 1. 登場人物たちが次々に死んでゆく、無差別サバイバルゲームアクション
 2. 貧しいながらも助け合って生きてゆく、兄妹の苦節と希望の物語
 
 
 道徳性の見地からすれば、2の方が多くのことを学べそうなのは、おそらく間違いないことでしょう(苦難を耐え抜く力、希望、愛の奇跡)。しかし、遺憾なことながら、どちらを観るかと聞かれてわが国の青少年たちのほとんどが選ぶのは、問答無用で1の方なのではないかと思われます。
 
 
 現代の資本主義社会においては、未成年たちが消費者としての圧倒的なプレゼンスを誇っているので、洋の東西を問わず、彼らのニーズに合わせて刺激的なバイオレンス描写を盛り込んだ映画が次から次へと制作されています。もっとロボを、もっとモンスターを、もっとサイコパスをというわけです。
 
 
 その結果、世界文学の名作を愛読する青少年の数は、以前の時代と比べれば、驚くほどに減ってしまいました。人類は、歴史上のすぐれた古典作品によって若者たちを教育するかわりに、YouTube動画とアイドル育成ゲームによって彼らを感化するという道を選んでいます。筆者は、このことの是非について断定的な評価を下すことは控えますが、近年、教育に関して大きな方針の転換が行われつつあることは間違いなさそうです。
 
 
 
youtube アイドル 人類 世界文学 フィクション 道徳 哲学 倫理
 
 
 
 これ以上青少年たちについて不用意に論じていると、彼らの中でも血気盛んな人々によってこのブログが徹底的に燃やし尽くされる可能性もゼロであるとは言い切れないので、そろそろ本題に戻ります。社会の中でフィクションこそが罪や悪徳を取り扱う役割を担っているという事実に対しては、もっと多くの注意が払われてもよいのではないだろうか。
 
 
 人間の世界の中に罪や悪徳が存在しており、また、誰もが多かれ少なかれそうしたものと完全に無関係ではありえない以上、フィクションがそれらの物事を取り扱うということにはある意味では仕方のないところがあります。しかし、だからこそこの領域には、本来はきわめて大きな倫理的責任が伴うと言えるのではないか。
 
 
 実際のフィクションの作り手たちのうちにはこの責任を強く意識している人たちも少なくないと思われるので、彼らにとっては今さら何をという感は否めないかもしれませんが、哲学問題としてフィクションの是非を問うという場合には、この論点が決定的に重要なものになってくることは間違いありません。筆者自身、多大な倫理的欠陥にまみれながら生きているので、この探求自体が進むべき方向を見失った根拠薄弱なものになる可能性が高いことは否定できませんが、この路線に沿ってもう少し考え続けてみることにします。