フィクションに関する問題提起:
フィクションに気晴らしとしての価値があるとして、果たして、フィクションの価値はそれに尽きているのだろうか。
フィクションが場合によってはこの上ない気晴らしということは、ほとんど論証を要しません。しかし、作り手も鑑賞者も、彼あるいは彼女が小説なりマンガなりアニメなりを心から愛しているならば、おそらくはそれ以上のものを求めているように思われます。
「結局、エンターテインメントだから」と言ってしまえば、話をそこで終わりにすることもできます。しかし、哲学の問題としてフィクションの是非を考える場合にはやはり、より暑苦しく、より深い方向に進んでゆく必要があるのではないか。
僕自身の話をさせてほしい。僕は確か中学生くらいの時、プレステのRPGのゲームにはまりまくっていたのである。
色々やったけど、たとえば『ゼノギアス』とか『クロノ・クロス』とか『FFT』とかが僕にもたらしたものは、今から思うと、当時思ってたよりもはるかに大きかったんではないかって気がする。いやもう、あれは人生でしたよ。ストーリーに浸かりまくって、人生とか世界とか、色々考えさせられましたよ。
めちゃくちゃニッチな話で恐縮ではあるのだが、あれはほんと傑作だった。黄金期のスクウェアとかヤバい。だから、あれは単なるエンターテインメントだったとは、どうしても言いたくないのである。あれは人生である。今日はここまで書いてしまった以上、YouTubeでOSTでも聴かねば、おさまりがつかぬ……。
モノは異なるにしても、おそらく、青年期に運命的な「あの作品たち」に出会ってしまったという人たちは、少なくないのではないでしょうか。人生のある時期には、人間は、フィクションに真剣に向き合いながら自分自身の人格を形成してゆくという過程をたどるように思われます(世界的に見るならば、この過程を体験できるという時点で、そのような人間が社会・経済的にみて極めて恵まれた環境にあるということは、どこかで意識しておく必要があるだろう)。
とにかく、であるからして、十代の時に何に出会うかって、今さらだけど、めちゃくちゃ重要なんではないかと思うのである。
あの頃、僕は自分の意志でプレステを選んだんじゃなくて、みんながプレステやってたからプレステやってただけである。だけど、今から思うと、青年たちに大切なことを伝えねばという作り手たちの熱い思いがあったからこそ、当時の僕はそこで出会うべきものに出会ったんではないかって気がする。
僕がこれまでも、そしてこれからもやり続けねばならんのは、ゲーム作りではなく哲学である。だが、あの頃に感じていた熱い思いは、決して忘れてはならぬ。たゆむことなく怠ることなく、しかと覚悟して、哲学の歴史に闘いを挑み続けねばならぬ……。
今回は非常に個人的な話になってしまい申し訳ありませんでしたが、筆者自身としては、自分にとっての「あの作品たち」を届けてくれた作り手の方々には感謝せずにはいられません。気を引き締め直しつつ、これからも哲学の道を歩み続けることにしようと思います(「哲学史に、俺という一ページを刻み込む」)。