イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

〈存在〉の問題圏へ

 
 フィクションの「有益性」については他にもさまざまな視点から考察を加えることができそうですが、そろそろ、ハードな反フィクション論の側の検討に戻ることにします。
 
 
 ハードな反フィクション論の中核:
 フィクションは、人間に「この現実」の重みを見失わせかねないものなのではないか。
 
 
 哲学って、ある意味ではまことに節操がないというか、忙しい営みである。このテーマに限らず、何かの価値を肯定しまくった後には、それに対する反論の方も本気で掘り下げねばならぬ。
 
 
 しかし、おのれの思考に対する反論と再反論こそが、哲学の生命そのものなのではなかろうか。真理って一本道のものではなくて、追おうとすると議論に次ぐ議論の奔流に巻き込まれることになるというのが事の実相なのではないかと思われるのである……。
 
 
 私たちの国は現在、おそらくは他のどの時代や地域にもまして多くのフィクションを日々制作し続けています。その意味では、私たちほどフィクションの存在を「愛している」人間たちは他にいないとさえ言うことができるかもしれません。
 
 
 しかし、人間の「愛」は多くの善いものを生み出すと同時に、歪みをも生み出します。フィクションという目下の主題についても、哲学は、通常の場合には目を向けられることのない、物事の不都合な側面にも眼差しを注がないわけにはゆかないのではないか。
 
 
 
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 幸いなことに(?)、このブログで何をどう考察しようとも、それが何らかの影響力を持つことはなさそうなので、私たちも落ち着いた環境でハードな反フィクション論の考察にいそしむことができます。すでに一度はじめに触れたように、反フィクション論が何をどう主張しようと、世の中からフィクションなるものが消滅することはまずありません。
 
 
 しかし、「フィクションは『この現実』の重みを見失わせかねないのではないか」という上の主張は、僕には決定的に重要なもののように思われるのである。現代の世界は、この現実というものの意味と重みをどこか忘れかけているのではなかろうか。パラレルワールドとかVRとかが一部ではプレゼンスを増しつつあるが、何よりも大切なのはやはり、つまらなくて一見すると何の変わりばえもしないようにみえる、目の前の見慣れた「この現実」の方なのではないか……。
 
 
 フィクションに関する私たちの探求も、ようやく倫理学存在論が切り結ぶ地点にまで辿りついたように思われます。筆者自身は、最近では哲学の歴史とはやはり、存在の思索の歴史に他ならないのではないかと考えているところなので(cf. ハイデッガーは非常に重要ではあるが、同じことを考えていた無数の先人たちの一人に過ぎない)、この辺りの事情については、ここでしっかりと時間をとって考えておきたいところです。