イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「この現実」

 
 私たち自身の実存に関する一事実:
 私たち人間はそれぞれ、たった一つしかない「この現実」を生きている。
 
 
 たとえば、このブログを書いている筆者自身はいま、33歳の男性としてこの文章を書いています。
 
 
 いま「男性」と書きましたが、筆者も他のすべての人間と同じく、自分自身の性に生まれてきたくて生まれてきたわけではありません。筆者が生まれてきた時には、この性はすでに、他のさまざまな条件とともに与えられていました。
 
 
 そのことはともかくとして、筆者は一度限り与えられた自分の人生を、哲学(と神学)を学ぶことに費やしてきました。先のことは誰にもわかりませんが、おそらくはこれからも可能な限りは、いち哲学者としてこのブログを書き続けるのではないかと思われます。
 
 
 それぞれの人間が、この世でたった一度限り、与えられた自分自身の人生を生きます。長く生きることを許される人もいれば、すぐにこの世を去らなければならない人もいます。お金持ちの家に生まれる人もいれば、生まれた時から貧困を生きなければならない人もいます。
 
 
 人生の与えはたった一度で、取り返しがつきません。普段はあまりこのことを強く意識することはありませんが、改めて考えてみると、このことの意味はとても重いと言えるのではないだろうか。
 
 
 
ブログ 哲学 神学 超越論的意識 マルティン・ハイデッガー 死に向かう存在 反フィクション論 忘却
 
 
 
 「存在する」という言葉が哲学にとって決定的に重要なものであると言えるのは、一つには、この言葉が、上に述べたような厳粛さを帯びたものだからです。
 
 
 わたしは在る、存在する。しかし、わたしは単なる「考えるわたし」として存在するのではない。肉と血を備えた人間として、いつの日か死ぬことを定められた一本の考える葦として、存在している。
 
 
 近代の思惟は、人間を思考する精神として、純粋な超越論的意識として捉えようとしました。そのことには深い意義と歴史的な必然性があったことは疑いようもありませんが、同時に、人間に対して、人間自信の置かれている根源的な条件が忘却される可能性を与えてしまったことも事実です。
 
 
 マルティン・ハイデッガーが人間を「死に向かう存在Sein zum Tode」としての現存在として規定した時、彼はこの忘却に対して全面的な抵抗を試みていたと言えるのではないだろうか。私たちの探求は、反フィクション論が哲学の歴史そのものと交錯する地点に辿りつきつつあるように思われます。