イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「名づけえぬもの」

 
 哲学的観点から見た、悪霊の排除不可能性:
 何ものかがわたしを「この人間」であると思いこませようとしているという可能性は、原理的に言って排除することができない。
 
 
 パラノイア的妄想の極致ともいえるこの可能性を本気で信じるとすれば、その時ひとは一般にはもはや正気を失ったものと見なされることでしょうが、それでも、人間には「わたしは絶対確実に、悪霊に騙されてはいない」と断言することはできないのではないか。
 
 
 ここで重要なのは、わたしにとって、「考えるわたしが存在する」ということの絶対確実性は、他のあらゆる真理の確実性から区別されるということです。繰り返しになってしまいますが、わたしが実は「この人間」、たとえばphilo1985ではないということは可能性としてはありえますが、その一方で、そのように疑っているわたしが存在しないということはありえません。
 
 
 いずれまた別の機会に詳しく論じることにしたいと思いますが、近代哲学の認識論は、このコギトの絶対確実性を始点=支点として、他の客観的真理の真理性を保証してゆこうとします。しかし、そのような企ては常に、ある乗り越えがたい限界に付きまとわれていると言わざるをえないのではないか。
 
 
 わたしは存在する。しかし、そこから「わたしは『この人間』である」までの間には、少なくとも絶対確実性という観点からすれば、打ち消しがたい距離が存在している。この距離は、脳科学を始めとする自然科学の知の対象には属することのない距離であり、まさしく哲学に固有な認識論的隔たりであるといえます。
 
 
 
哲学 悪霊 パラノイア コギト 絶対確実性 サミュエル・ベケット 名づけえぬもの 第一省察 デカルト 
 
 
 
 問い:
 それでは、「コギト・エルゴ・スム」において見出される「わたし」とは何なのだろうか? 
 
 
 わたしは普段、この「わたし」という表現を、それと注意することなしに用いている。たとえば、わたしが出かける、わたしはあの人に会う、といったように。
 
 
 しかし、悪霊の想定は、そのような「わたし」の自明さに疑いを差しはさむ。わたしは本当に、この人間なのだろうか。むしろ、わたしは、「疑いもなくわたしはこの人間である」と思い込んでいる誰かなのではないか。
 
 
 「誰か」というよりも、本当は「何か」という語を用いた方が正確かもしれません。サミュエル・ベケットの卓抜な表現によるならば、それは「名づけえぬものL’innomable」であり、考え、感じ、そして疑いつつある何ものかです。
 
 
 デカルトは「第一省察」において、自分のことを帝王であるとかガラスでできているとか思い込んでいる狂人たちについて語っていましたが、哲学的思考は、ここで不可避的に彼らの思考と見分けがたいものとなっている自分自身の姿を見出すことになります。人間である代わりに、自分のことを人間であると思い込まされている何かであると想像するというのは、奇妙でないとは言い切れない事態であることは確かです。