イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

コモン・センスを擁護する

 
 反対命題の再提示:
 わたしとは、純粋意識である。
 
 
 悪霊の想定(前回までの記事参照)を踏まえると、この反対命題から出発して、次のような立場に立つことも可能です。
 
 
 反人間主義的自己観:
 わたしとは、「この人間」ではない。
 
 
 このような自己観の行き着く先については、その一部をすでに前回の『フィクションは悪か』において論じました。異論もありうるとは思いますが、このような自己観からは現実否認と倫理性の放棄が生じかねないのではないかというのが、筆者の問題提起になります。
 
 
 ここで付け加えておきたいのは、このような自己観からはたとえばヘーゲルの「絶対精神」に典型的に見られるような、多種多様な哲学体系が生まれうるということです。「わたしとは『この人間ではない』」から「わたしは絶対者である」までの間には巨大な隔たりが存在していますが、いま挙げたヘーゲルショーペンハウアーをはじめとして、この道を進んでいった先人たちの数は決して少なくありません(当ブログでは、以前に『ひとは死んだらどうなるのか』でこの問題系への接近を試みた)。
 
 
 しかし、筆者としては、このような立場からは離れたところで「わたしとは何か」という問題を突き詰めてゆくこととしたい。つまるところ、それは「わたしとは『この人間』である」という、ある意味では当たり前のものの見方を擁護してゆくという方向性です。
 
 
 
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 コモン・センス、すなわち常識に対してどのようなスタンスを取るべきかというのは、哲学者がその探求のうちで時おり向き合わされることになる問題です。筆者も哲学者のはしくれとして、コモン・センスに対して一言申し上げたいという場面は無数にありますが(「哲学の道は、この世の道ではない……」)、ここでは断固として、古き良き常識の側に与することとしたい。
 
 
 すなわち、繰り返しにはなってしまいますが、「わたしとは『この人間』である」。面白くも何ともないといえばその通りかもしれませんが、先にも述べたように、これとは別の道を進んでいった先人たちには枚挙にいとまがないことを考えると、このように主張することにも一定の意義はあるのではないかと思われなくもありません。加えて、このテーゼの含意するところをしっかりと確認しておくことは、存在の問いを問うという哲学の務めにも直結することなのではないか……。
 
 
 そういうわけで、今回の探求の後半戦では「わたしとは『この人間』である」という常識を能うかぎり掘り下げてみることにします。哲学の求道者たちと、「ひょっとしたらわたしは『この人間』ではないのではないか」と悩んでいるパラノイア的迷える子羊の方以外には何の興味も湧かないものとなってしまう恐れも多分にありますが、興味のある方はお付き合いいただければ幸いです。