問いへの答え:わたしが死んだ後にも、世界はそのまま続いてゆくであろう。
わたしの死は、わたしの想像を超えている。それというのも、意識としてのわたしには、自分自身についてはいつでも「わたしは存在する」としか考えることができないからです(所謂「わたしには死ぬことができない」型の論理)。
しかし、それにも関わらず、わたしは他の誰でもない「この人間」として、いつの日か死ぬだろう。そして、他の人々にとって、その死は何の変哲もない「誰か、他の人の死」でしかないことだろう。
わたしの死は、わたしにとっては世界そのものの消滅にも等しい「比類のない出来事」であるにも関わらず、その一方では、その同じ出来事が毎日起こっている「いたって普通の出来事」でしかないということ。この事態に、超越論的な意識の主体でありながらも経験的な一存在としての人間でもあるという、わたしの持つ根源的な二重性の逆説がはっきりと示されています。
一人の人間としてのわたしは、この事実を前にして、自分の限りある命をどう用いるかを決めてゆかなくてはなりません。わたしの命が、わたし自身の死に向かって刻々と時を刻んでいっていることは、どうしても止めようがないからです。
わたしは昔、自分の生きたいように生き、行きたいところへ行っていた。その頃のままの生き方をこれからも続けてゆくとすれば、死とは呪いであり、不幸の中の不幸でしかないことだろう。
意味のある死に方を見つけること、あるいは、仮にここで死ぬとしても悔いがないと言えるような務めを与えられて生きるということ。人間にとっての本当の幸福とは、おそらくはそうした生き方のうちにあるのではないだろうか。
「意味のある死」といっても、普通の人間には言うまでもなく、それほど大きなことはできません。筆者個人に関して言うならば、自分が行っていることとしては、日々隣人たちと関わりながらいち信仰者としての生活を送りつつ、こうしてブログを書くことくらいです。
しかし、人間にはいずれにせよ死を免れえないとするならば、自分の死をできるだけその「意味のある死」なるものに近づけたい。そのためには、わたしは一体どのように生きてゆけばよいのだろうか。
聖書ではこの点に関して、「隣人を自分のように愛しなさい」という簡潔な戒めが語られています。自己愛という運命に取り憑かれた私たち人間には縁遠く見える言葉であることは確かですが、すべての人はいつか死ぬという普段忘れがちな事実に思いをいたしてみるならば、立ち止まって耳を傾けてみるだけの価値はあるのではないかと思われます。