イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「スム・エルゴ・コギト」あるいは、存在の与えについて

 
 「わたし」という存在に関する今回の探求も、そろそろ大詰めを迎えつつあるようです。
 
 
 コギトに関する一考察:
 「コギト・エルゴ・スム」という命題は、認識の順序からすれば正しいけれども、事柄の順序からいえばむしろ「スム・エルゴ・コギト」となることにも注意を払う必要があるのではないか。
 
 
 考えたり、想像したり、感じたりするという働きが存在していることは疑いえないがゆえに、そのように考え、想像し、感じている「わたし」 が存在することもまた、疑いえない。それが、デカルトがあの有名な「コギト・エルゴ・スム」によって言おうとしたことの核心でした。
 
 
 しかし、そもそも改めて考えてみるならば、最初にまず与えられているのは、考える、想像する、感じるといった働きを行う意識としての「わたし」が、まず存在してしまっているという事態のはずです(「スム・エルゴ・コギト」、すなわち「わたしは存在するがゆえに、わたしは考える」)。
 
 
 「わたしが存在してしまっている」という時の、そのわたしの存在は、わたしが自分で自分に与えることはできません。わたしの存在の与えとは、まさしく「わたしという存在そのもの」を与えるのであり、この与えよりも前に「わたし」なるものは存在しません。わたしはいわば無のうちから呼び出されるのであり、わたしの与えはそのような出来事として、存在しないものを呼び出して存在させる与えであると言うことができるのではないだろうか。
 
 
 
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 ところで、わたしの意識の存続が、わたし自身の意志によって保たれているのではない以上、この「わたしの存在の与え」なるものは誕生や覚醒といった特別な瞬間だけでなく、今のこの瞬間にも継続しているといえます。
 
 
 中世哲学風の言葉遣いでいえば、「保存ハ創造ニ等シイ」とでも言うべきところかもしれませんが、近代以降の哲学の方により慣れ親しんでいる私たちとしては、デカルトによる「連続創造仮説」という呼び名の方が馴染みが深いかもしれません。いずれにせよ、この「スム・エルゴ・コギト」、すなわち「存在の与えが存在するがゆえに、わたしは感覚し、想像し、思考する」という事実は、近代哲学の枠組みに囚われることなく「わたし」という存在について考えてゆく上で、極めて重要な論点であるといえるのではないだろうか。
 
 
 存在の与えは、根源的事実性という術語によってこれを特徴づけることもできそうですが、おそらくはこの表現のうちに含まれている「与え」という契機を掘り下げておくことが肝要なのではないかと思われます。この点にさらに着目しつつ、「わたしとは何か」という今回の探求の主題に対する暫定的な結論に向かってゆくことにしましょう。