イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ハイデッガーについて

 
 哲学においては、根本的な事柄をいくら詳細に論じたとしても十分ということはまずありませんが、そろそろわたしの存在の与え、あるいは意識の与えという論点から次の論点(「この人間」の与え)に移ることにします。しかし、その前に、次の点をあらためて確認しておくこととしたい。
 
 
 存在の問いに関する注意事項:
 存在するということそれ自体は、常に忘却され、隠蔽される傾向のうちにあるということを忘れてはならない。
 
 
 この点については、上のような注意が必要であると指摘したマルティン・ハイデッガーという先人の功績を忘れることはできません。筆者自身はフランス現代哲学の影響の色濃い知的環境の中で哲学を学び始めましたが、この道を学べば学ぶほど、哲学史的に見れば17世紀がデカルトの世紀であったのと同じように、20世紀はハイデッガーの世紀であったのだろうという確信は深まりつつあります。
 
 
 いわゆる「転回」以降の彼の後年の思索(この思索に対して何らかの正面からの応答を返した哲学者は、恐らくはまだほぼ皆無に等しい)をどう考えるのかという点については今後の課題とするほかありませんが、いずれにせよ筆者の哲学は、この巨人の残した足跡とは無関係ではありえないでしょう。ハイデッガーとの対話は、この時代に生まれてきた哲学徒にとっての必然のようなものなのではないかという気がしています。
 
 
 
哲学 存在 マルティン・ハイデッガー フランス現代哲学 デカルト 転回
 
 
 
 おそらくはどんな哲学者であっても、「わたしの哲学は、この人の哲学とは無縁ではありえなかった」と言わざるをえないような先人の存在を必要としています。筆者にとっては、その中でも最も重要な人物がハイデッガーであったということになるのかもしれませんが、そのような先人が自分に与えられたことには、今更ながらとはいえ、自分自身の受けた恵みと、それを与えてくれた天に感謝せずにはいられません。
 
 
 哲学徒は、彼あるいは彼女がもしも本当の哲学者になりたいのであるならば、哲学の歴史との対決を行う覚悟を固めなければなりません。
 
 
 この対決はおそらく、先人の言葉に対する徹底的な傾聴なしには、無残な失敗に終わるほかないことでしょう。まずは自分自身を、聞くべきものを聞きもらすことのない耳たらしめることが重要であるのは間違いなさそうですが、それと並行して「わたしとは何か」という問いにも、引きつづき、筆者なりの答えを出すよう努めてみることとします。