問題提起:
もしも友を持つことがなかったならば、人間は病むほかないのではあるまいか?
上のような意味からすると、友の存在は、空気や食べ物の存在にも似ています。そのことはたとえば、海外生活を体験した人にはより容易に納得されることかもしれません。
海外に留学あるいは仕事で渡航した時、新生活の物質的基盤を整えてゆくのと同じくらいに重要なことは、ある程度以上に親しく話せる相手を見つけることです。日本語ばかり話していると語学が上達しないといって同胞の日本人から離れようとする人もいますが、この点からすると、同国人の友人を作ることの意義は非常に大きいといえます。
これまでに築いてきた人間関係のすべてから切り離されて新しい生活を始めるという環境のもとで、友人を作らずにはいられないという人間の特質がくっきりと示される。海外生活で病んでゆく人が数知れないという事実は、この特質の持つ意味をいわば逆側から照射するものであるといえます。
このように見てみると、「人間には他者が必要である」というよりも、「人間には友人が必要である」という言明の方が事柄をより正確に言い当てているということに改めて気づかされます。哲学が、友なる存在についての考察を切実に必要とするゆえんです。
エマニュエル・レヴィナスの哲学は、〈同〉に還元されない〈他なるもの〉について思考するという関心のもと、他者の異他性に目を向けようとする試みでした。このような試みにおいては、他者は友ならぬ異邦人として描かれ、また、そうすることは、無意識のうちに他者を「友なる他者」として前提しつづけてきた哲学の伝統に対する異議申し立てでもあったわけです。
今回の探求で行いたいのは、友に見えていた他者が異邦人として姿を現し、異他性が乗り越え不可能の様相を呈するその地点において、なおも「友であり続けること」は可能であるかを問うことです。
その意味では、今回の探求はレヴィナス以降の友情論の構築を目指すものであるとも言えそうですが、その点について詳しく論じるには、まだ準備が足りないようです。これからしばらくの間は、望ましい友という最初の主題の方にまずは集中することにしましょう。