イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

生き残るための友

 
 友情の「場所性」:
 友情は、それが結ばれる人間同士の間に親密圏を作り出す。
 
 
 私たち人間がその中で生きている社会なるものは、公共圏の働きなしには維持・運営されることができません。学校や仕事場、あるいはお店や役所といったようなさまざまな場所は、それらの場所とオープンな社会的関係を結ぶ多くの人に開かれつつ、社会の生産・再生産の活動に寄与しています。
 
 
 ところが、この公共圏の活動は苛烈な生産性の論理に突き動かされてもおり、そのことが、公共圏の中で立ち働く人間たちを圧迫し続けます。高度資本主義社会は、歴史上かつてなかったほどの豊かさと便利さを備えた社会を生み出しましたが、同時に、その中に住んでいる人間の心を蝕み、病ませている側面があることも否定できません。
 
 
 友情は、多くの場合は公共圏の活動から派生して生まれますが(「同じ学校の友達」、「職場の友人」etc)、いったん生まれてしまうと、公共圏から多かれ少なかれ独立した圏域を作り出します。この圏域は、人間を生産性の論理の圧迫から保護しつつ、その中で本当の意味で心をくつろがせることを可能にするものであり、まさしく親密圏の名で呼ばれるのにふさわしい場所であるといえそうです。
 
 
 
友情 公共圏 高度資本主義 親密圏 ドゥルーズ=ガタリ アンチ・オイディプス ゲーテ
 
 
 
 友人関係以外であっても、たとえば家族という共同体は親密圏の代名詞とも言えるかもしれませんが、家族が崩壊している、あるいは何らかの意味で機能不全に陥っているという場合には、他に親密圏を見つけることが生き残る上でも必須の課題になってきます。
 
 
 また、家族という単位は社会から相対的に独立しているのと同時に、実は公共圏と生産性の論理に適合するよう社会から強いられてもいるので(この点については、ドゥルーズ=ガタリの古典的名著『アンチ・オイディプス』を参照)、家族を無条件に「愛と癒しの場所」として思い描くことは必ずしも正しいとは限りません。
 
 
 以上のことを踏まえると、友を作るというのは限りない喜びの源泉であるというだけではなく、この世で生き残って行く上での最重要課題の一つでもあることがますます判明になってきます。互いに存在を認め合い、憂鬱や苦境を分かち合うことのできる友は、ゲーテも言うように、空気や光と同じように必要不可欠な存在です。
 
 
 ところで、社会には、公共圏に属しているようには見えるものの、実は親密圏的な働きによって中和化されている奇妙な場所が、数は少ないものの存在しています。人生に疲れきってしまったら、すべてを諦めても許してもらえる「片隅の場所」を求めてみるというのも、選択肢としては悪くないのではないかと思われます(ただし、片隅には自分と同じ変人たちが多数住みついているということは、あらかじめ覚悟しておく必要がある)。