イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者の探求へ

 
 今回の探求の主題:
 わたしには、他者であるあなたの存在にどこまで近づくことができるのか?
 
 
 友に関する前回の探求の延長線上の問いとして、今回は上の問題に取り組んでみることにします。
 
 
 わたしには、他者であるあなたの意識には、原理的に言って到達することができません。わたしの意識とはあくまでも「わたしの」意識であり、少なくともこの世においては、あなたが本当に何を感じ、何を考えているのかがわたしに対して完全な形で示されることは決してないでしょう。
 
 
 しかし、だからと言って、わたしは他者たちとのコミュニケーションの可能性を諦めるわけにもゆきません。
 
 
 もしも他者が存在しないとすれば、人間はすぐさま生きる意味を失って、虚無のうちに落ち込むことでしょう。「わたしは、他人との関係なんていらない」と叫ぶ人ですら、ほとんどの場合には、その叫びを叫ぶ相手としての他者を必要としているのであり、その叫びすらも失ってしまうとすれば、その人は恐らくは死と限りなく近いところにいます。
 
 
 その意味では、生きるとは他者に向かってゆくことそのものであるとすら言えるのではあるまいか。そう考えてみると、他者の問いに哲学上の一応用問題などではもちろんなく、むしろ、哲学の中核に場を閉めるのにふさわしい問題であるといえます。
 
 
 
他者 哲学 アレルギー 絶望
 
 
 
 他者に対する無関心と倦怠が、私たちの時代を特徴づけています。
 
 
 「わたしは、自分自身にも他人にも倦み疲れている。」他者体験の欠如による他者アレルギーから、疲労による意気阻喪に至るまで、私たちの中で、他者との関係において何らかの絶望を感じたことのない人はほとんどいません。他者を求めつつも、他者に苦しみ、他者を嫌悪し続けるというのが、おそらくは私たちの運命なのでしょう。
 
 
 しかし、絶望とは、多くの場合には無気力と怠惰の言い換えであるに過ぎず、生は、生を生きるに値するものとするための労苦を求めています。
 
 
 幻滅や倦怠と入り混じったこの労苦がないとすれば、人間の生は、あまりにも頻繁に見られるあの投げやりな虚無に落ち込んでゆくほかないでしょう(この虚無は大抵の場合、自らを賢さと取り違えるという愚昧と結び付いている)。生を意味のあるものにしたいと望むならば、私たちは、この労苦を引き受けることから逃れるわけにはゆかないようです。