イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

師は、十分に諦めていなければならない

 
 具体例2:
 哲学の師には、弟子の魂についての深い理解が必要である。
 
 
 人間の心が必要とするものは、その人自身の年齢や特性によって異なっています。
 
 
 哲学の場合、他の諸学問や芸術・科学、また、実社会のあり方について学ぶことなども必要なので、何を学んだとしても損ということは決してなさそうですが、学びの途上にある弟子の方はといえば、「このことには興味があるけれども、あのことには興味がない」といった状態であることがほとんどです。したがって、師はその時々の弟子の現状に合わせて、話し方や内容を変えてゆかなくてはなりません。
 
 
 たとえば、ある弟子は真実を言い当てる遠慮なしのきわどい冗談を好むかもしれませんが、別の弟子は、正義感や理想を奮い立たせる思想談義に燃えるたちの人間かもしれません。
 
 
 およそ人間愛なるものには関心を示すどころか、拒否反応さえ示しかねない反出生主義的な魂の持ち主もいれば、哲学を好んでいなくはないが、本当はこの世の他の物事に心を囚われているといった困り者もいるでしょう。師は、そういった一人一人の弟子たちの心のありさまを本人自身よりも深く知り抜き、機会と場所に応じて、弟子たち自身が学ぶべきことを学ぶ、その学びの現場に居合わせるように努めなければならないでしょう。
 
 
 
人間愛 哲学 反出生主義 独創性
 
 
 
 師の古典的定義:
 哲学の師とは、弟子の魂のうちに真理を生むことのできる産婆術の持ち主のことである。
 
 
 ただ単に相手に向かって正しいことを言うというだけでは、十分ではありません。正しいことを言ったとしても、その言葉が弟子の耳を右から左へ通り抜けてゆくだけであったとすれば、その人は仮によい哲学者であるとしても、よい哲学の師であることにはならないでしょう。
 
 
 一般に言って、人間は偏見と先入見によって致命的なしかたで目を曇らされており、その上、自らを賢いとみなすという根治不可能な蒙昧の虜となっています。真理よりは誤謬を好み、従順よりは「独創性」(これは多くの場合、オリジナリティと取り違えられた頑冥さと固執に過ぎない)を望むというのは、若き哲学徒に課せられた宿命のようなものです。
 
 
 若者の魂は相対的に見て、多くの柔軟性と可塑性を兼ね備えていることは確かですが、それでも頑なであることには変わりありません。師は、弟子のそうした頑なさを経験と機知とによって巧みにすり抜けつつ、生まれつつある真理が無事に産み落とされるように、細心の注意を払いながら対話を進めてゆかなければならないでしょう(師が弟子を導くことができるのは、人間存在を信頼しているからではなく、むしろ信頼していないからであろう)。