イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「タピっちゃう?」

 
 論点:
 コミュニケーションにおいて働いている力関係の内実には、常に注意を払う必要があるのではないか。
 
 
 たとえば、前回の記事に引き続いて学校のケースについて言うならば、教師が生徒に対して与えることのできる指示の内容には、ある一定の制限があります。
 
 
 「教科書の〜ページを開きなさい。」この指示が教室で授業中に与えられるのならば、生徒は、特に理由がないとすればそれに従うことを要求されるでしょうが、これがたとえば「私に、今すぐタピオカミルクティーを買ってきなさい」であれば、必ずしもその指示に従う必要はありません。そのような指示は、教師として生徒に与えることを許されている指示の範囲を越え出ていると思われるからです。
 
 
 すなわち、教師はあくまでも、生徒に与えることができると通常想定されている範囲においてのみ指示を出すことができるし、そうすることが許されてもいる、というわけです。「窓を開けてくれ」「席を立ちなさい」「名前を呼んだ生徒はテストを取りに来なさい」は正統な指示であっても、「今日は私と一緒にタピオカミルクティーを飲みに行きなさい」はNGであるということです。
 
 
 「タピっちゃう?」が許されるのは、先生と生徒というよりも、むしろ友達同士、あるいは恋人同士の場合でしょう。このような呼びかけは言うまでもなく、呼びかける相手に対する一定以上の親密さを、不可欠な前提条件として必要としています。
  
 
 
コミュニケーション 教科書 タピオカミルクティー ゴンチャ 鉄観音ミルクティスムージー フリードリヒ・ニーチェ ミシェル・フーコー 
  
 
 
 呼びかけの言葉:
 「タピっちゃう?」
 
 
 たとえば、もしもA君がクラスメートたちの誰かに対してこの誘いの言葉を発するとすれば、その呼びかけが成功するかどうかは、相手によってまちまちでしょう。
 
 
 Bならまず断りはしないであろうし、多分来るであろうが、しかし俺よ、男と二人でタピってどうする。やはりここは、超絶かわいいマイエンジェルのCちゃんと渋谷あたりのゴンチャで鉄観音ミルクティスムージーをすすりたい(あと、どさくさに紛れて手とかつなぎたい)ところだが、マイエンジェルは五月の文化祭で俺にガチでキモい奴認定を下しやがったからムリだ。残るは、お互い惰性で毎晩LINEしてる幼なじみのDくらいだが、あいつ、本読んでばっかりだし、タピオカなんて興味あんのか?
 
 
 Aが呼びかけの言葉をかけてもよさそうな相手には、このように、かなりのばらつきがあります。Dとタピった場合には、ひょっとしたら夕暮れの帰り道で「A、あんた今、好きな人いるの?」「わたしだって女の子だし、タピオカくらい飲むんだから……」等々といった、青春ど真ん中ストライクなセリフを聞ける可能性もなくはないかもしれませんが、仮にCを誘うとしても、おそらくはクラス内の「KING OF キモい男子選手権 2019 ULTIMATE FINAL」のエントリーリストに加わることにしかならないでしょう。
 
 
 ともあれ、言語と力というテーマは、フリードリヒ・ニーチェミシェル・フーコーといった哲学者たちも精魂を込めて探求した哲学の重要トピックであることは確かです。なお、筆者は現在、一緒にタピオカミルクティーを飲みに行ってくれる女性(野郎と同行するという無意味に屈する気は、筆者にはない)を絶賛募集中ですが、今までのところ応募に反応してくれた篤志車の数は絶望的なほどまでに皆無なので、この世から隔絶して孤高の人生を送る覚悟をますます強固に固めつつあります。